【小話】平安時代 退屈だが史料としての価値が高い平安貴族の日記

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画像は前賢故実. 巻第6(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

平安時代の日記は現代の日記とは違い、儀式の作法が多く書かれ、自分の日記が後に他人に読まれ利用されることを意識して書かれた公的なものであった。平安時代は何かと儀式が多く先例が重視されたから、毎日の行事を細かく記録することは、儀式作法を覚えるためにも、また後になってなにか似たような行事が行われる時に、あの時はどうだった、こうだったと先例として参考にするためにも、極めて有効な手段だった。だから日記は自分が後に利用するためだけでなく、子孫に伝えられるべきものであり、必要があれば後世の人々の手で書写されるものであだった。

そういう性格だったため、ライバルを蹴落すようなことを書いたり、自分の行動を正当化するようなことを書いたりすることはなく、また全てを曝け出して書くようなこともなかった。中にはそれを逆手に取って全てを暴露したかのような形にして、都合のいいように中身を書きかえる者がいたのではないかと思ってしまうのだが、『日本の歴史5 王朝の貴族』によると平安貴族にはそのような自分を暴露する趣味はなかったとある。

その一方で、『紫式部日記』や『蜻蛉日記』などの「日記」と書かれた類のものは、一種の回想録で厳密な意味での日記はなく、始めから一つの文学作品として公開することを意識して書かれており、上に書いたような逆手が使われている可能性が十分にある。また、『栄花物語』や『大鏡』のようないわゆる歴史物語は、文学的要素が強く面白く読ませることに重点が置かれているから、いつどこでなにがあったかということに関しては曖昧な記憶を辿って後から書かれていて正確さがない。それに物語の筋を通すために必要な事柄しか書いていないので、一面的に過ぎず、史料としては日記には劣る。

史料といえば文書(もんじょ)があるが、これも信用度の面からいえば偽物が多く日記に劣る。文書は財産争いの証拠に使えるだけに、後からいかにも古い物のように見せかけて作り、インチキな内容を盛り込んで人をだまそうとするものも少なくなく、うかつに信用ならない。そのうえ、平安中期という時期は今日に残っている文書が非常に少なく、大体1年につき4、5通から多くても10通くらいしかなく、しかもその内容はみなバラバラでまとまりがないため、文書で歴史事実を組み立てるのは不可能である(『日本の歴史5 王朝の貴族』)。

日記は儀式の先例を集めて伝えることが目的だから、実益にならないインチキを書くことがないし、基本的には毎日連続して書くものであるから元号・月・日にちを書き間違えることはない。そうしたことを知ると平安時代の日記を読んでみるのも面白いのではないかと興味が出る。藤原道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』が有名だが、平安貴族の日記はそれなりに残っているようで、他にも藤原行成の『権記』、源経頼の『左経記』などが知られている。ついでに書くと、小右記の名は小野宮右大臣の二字を、権記は権中納言の一字を、左経記は左大弁経頼の二字をそれぞれ取って名付けられている。

参考文献
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』中公文庫

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