【本のレビュー】奈良時代『日本の歴史4 平安京』北山茂夫

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概略

日本の歴史〈4〉平安京 (中公文庫)
一つの展望台に達した古代国家は、律令制度を完成し、国富を集中して華麗な奈良の都を造る。貴族は惜しみなく富を七堂伽藍にそそぎ、民衆は悲喜交々の歌を万葉に託す。貴族と民衆の織りなすこの史劇を、古代人の心にわけ入って構成し、従来の奈良時代像を一新する。

公地公民の制が崩れていくなかで藤原北家が摂関政治を確立していく過程を描いた巻。扱う時代は、770年(宝亀1年)の光仁天皇の即位から966年(康保3年)の村上天皇の崩御までの約200年となる。約400年続き、前・中・後期に分けられる平安時代の前期にあたる。

701年に大宝律令で制定された公地公民の制は、700年代後半になると既に崩れていた。重い税から逃れるために農民(4巻では百姓ではなく農民と表記しているため、この記事では農民と表記することとする)が貴族や寺社に田を寄進し、寄進地系庄園が増え始め、朝廷は土地を一部手放している状況となっていた。この状況をつくった大きな原因は国司の容赦ない徴税であり、遷都や大仏造営などの事業である。奈良時代の中でも特に天平年間の乱脈極まる政府の人民使役は農民の生活を酷く痛めつけ、その暮らしむきを暗く惨めものにした。

光仁朝以降、政府は道鏡が傾けた政治の立て直しを図り、徭役の軽減や税率の軽減を行う。しかし国司はそれを逆手にとり自身の懐を温め、農民は貴族や寺院に逃げ込み状況は一向に改善されず、公地公民の制は更に崩壊していく。また、農民は国司からの徴税に抵抗するようになり、国司は武力を持たねば徴税できないようなり、郎党の集団をつくり、その状況が更に農民の反抗を呼び、9世紀後半から国司の襲撃や愁訴が行われるようになる。

この9世紀後半の貞観期という時代は、朝廷が貴族や寺院に対して庄園の不輸の特権を認めた時期でもある。公地公民の制の崩壊はもはや止めることができず、朝廷は庄園そのものを傾きかけた律令国家の新しい制度として位置付けるようになった。朝廷が公地を放棄したともいえるこの政策は更なる国司の武力化、貴族や寺院の庄園領主の武力化を進めていった。

天皇や摂政が地方行政の引き締めに真剣に向き合いそれなりの効果を出す時期もあったが、そうではない人物が皇位や摂関の地位に就き地方を顧みなくなると、不安定な状況は悪化の一途をたどることになる。そして10世紀になると、遂に平将門の乱や藤原純友の乱という大きな乱が地方で起こる。討伐軍を持たない朝廷にはもはや大きな乱を鎮圧する武力はなく、地方の受領系の勢力に鎮圧させるという構図が出来上がる。

中央貴族は庄園を経営したり国司や地方豪族からの贈り物で富を得、国家は税収が少なく給料がろくに出ない。平安京の治安維持に務める六衛府や検非違使も機能せず、都も地方も荒れた状態となる。しかも度々鴨河の洪水が起こり衛生環境が悪化し疫病が発生し、平安京は荒廃していく。そんな状況でありながらも宮廷では依然、詩宴・歌合が繰り広げられていく。

感想

日本史の教科書をより深く詳しくした中身になっていて、個人的には難解だった。文章が難しい訳ではなく、書かれていることは分かるのだが、抽象的で肝心なことがいまいち理解できない。前回読んで楽しめた3巻の『奈良の都』では、文化や風習の記述が多かったが、この巻はそうした描写はなく、為政者の歴史を淡々と記述しており2巻に近い感じがする。

扱う内容は蝦夷征討、平安京の建設、薬子の変、藤原氏による他氏排斥、平将門の乱・藤原純友の乱といったもので、仏教については最澄と空海の話が少し、文化については貴族の宴についてが少しというもの。中公文庫日本の歴史シリーズはそれなりの予備知識がないと読むのに苦労するが、大学受験レベルの日本史の知識がすっぽりと抜け落ちている自分にとっては、この巻は内容が内容だけに2、3回読んでも理解できないことが多く、分からずじまいで消化不良の感があった。

しっくりこない気持ちのまま5巻の『王朝の貴族』や6巻の『武士の登場』と読み進めていくと、分からなかったことが理解できるようになったので、5巻・6巻とセットで読むのがいいと思う。さらには7巻の『鎌倉幕府』や8巻の『蒙古襲来』でようやく理解できたこともあった。疑問が解決してから改めて、この『平安京』を読んでみると、理解できなかったことは自分の知識が足りなかっただけであり、重要なことをきちんと押さえている本であることは言っておきたい。

前期・中期・後期と約400年間続く平安時代の200年を1冊で説明している以上、本来著者が説明したかったことは相当削られていると思う。他の巻だと約100年間を1冊で説明している訳で、このあたりにも理解しずらい原因があるのかと思う。そういう訳で、5巻・6巻とセットで読むのがいいと思う。平安時代の文化や思想は5巻に譲っている感があり、5巻では儀式の世界、日記を書く人々、怨霊の恐怖、公卿と政務、浄土の教えなど、貴族社会の様子が生活・文化も含め詳しく書かれている。6巻では武士の登場に関連して奈良時代から平安時代の土地(庄園・荘園)について詳しく書かれている。

読んでよかった点

教科書をより深く詳しくした本であるから、天皇や藤原家の権力者の記述が多く、個人的にはあまり興味の持てない内容だったが、何度か読んでいると不思議と面白さを感じるものだった。天皇や太政大臣、左右大臣の政策を見ていくと、真剣に国政にあたっている人物が少なくない。堅苦しい政務から離れ宴に没頭する天皇や自身の利権を求めて暗躍する貴族がいる反面で、地方行政を引き締めて国政に真摯に向き合う者もいる。

それも、他氏排斥をしてライバルを蹴落とし自身の地盤を固めた上で国政に関わることもあり、結果としては一概に権力争いが国政を顧みないものとはいえないことが分かり、視野が広がる思いがした。いつの時代にも善政を敷く政治家というのはいるもので、平安時代前期にも中央に限らず、地方には良二千と呼ばれる良吏(国司)がいた。彼らは真摯に政治を行う権力者の下では遺憾なくその力を発揮するものであり、善政を敷くために他氏排斥をして実権を握ることは悪いことでも無駄なことでもないことが分かる。

個人的に興味を持てた内容は、蝦夷征討だった。蝦夷の懐柔するために行ったこと(投降してきた者を関東などの地に移住させた政策)や討伐するために行ったこと(東国の兵を蝦夷征討に使ったこと)は、その後の歴史を知る上での理解の助けになる。時代が下がると東国で武士が力を蓄えていく要因に蝦夷征討があったことをはじめ、奈良・平安時代の蝦夷討伐が後に各地で様々な問題を引き起こす原因となることが分かり、読んでいて興味を持てる内容だった。

日本の歴史〈4〉平安京 (中公文庫)
一つの展望台に達した古代国家は、律令制度を完成し、国富を集中して華麗な奈良の都を造る。貴族は惜しみなく富を七堂伽藍にそそぎ、民衆は悲喜交々の歌を万葉に託す。貴族と民衆の織りなすこの史劇を、古代人の心にわけ入って構成し、従来の奈良時代像を一新する。

今一つだった点

それなりに何度も本を読んだが、結局のところ律令制の崩壊について今一つ理解できなかった。なぜ政府は寄進地系庄園の増加を取り締まることができなかったのか、なぜ国司は悪政をしても国からそれほど咎められないのか、律令制の崩壊が進んでいるのに崩壊せずに済んでいるのはなぜなのか、そうした状況なのに中央では宴を行っているのはなぜなのか。そういった根本的なことが分からず腑に落ちなかった。特に土地(庄園)に関することがよく分からなかった。

「感想」のところで書いたが、これらについては6巻や7巻を読むと理解できる。6巻では902年(延喜2年)以降出される荘園整理令が効果を出さない理由は、政策を出している貴族自身に問題があったことが書かれている(173p)。また、土地が国司と貴族のあいだを行き来するケースがあったことも書かれている(287p)。これについては7巻でも書かれているが(68p)、田の所有権はその時々で変わり、貴族に寄進されたからといって律令制が崩壊する訳ではない。

巻末の解説で指摘されているが、「税収の不足と生活の奢侈とによって、国家は衰亡の一途をたどった」というのが平安時代の一般的な時代像であるのなら、「藤原道長など王朝貴族の奢侈の経済的基盤がどこにあったかということの説明ができない」というのは、まったくその通りだった。

国司と土地の問題にしろ、国司と王臣家との関係にしろ、単純な図式で説明できるものではなく、安易に結論づけることができないのは分かるし、200年間の動向を1冊にまとめている以上割ける紙面が無かったことも分かる。自分の読解力や知識の足りなさも勿論あるが、簡潔な結論を所々いれてほしいところだった。そんな訳で平安時代を知るには5巻~7巻もセットで読むのがおすすめとなる(平安期の田畑のことを知るには8巻もおすすめ)。

もう一つ残念だったのが、天皇や貴族が度々宴会を開いている理由や、奈良仏教との距離を置くために最澄・空海に新しい教団を設立させた理由がよく分からなかったことだった。この二つは詳しく知りたかっただけに、他の本を読む必要があり、その点今一つだと感じられた。

気になったことのメモ

本を読んで個人的に興味をもったことをいつものように幾つか書いておきたいと思う。文化や宗教についてはあまり興味をひくものがなく、今回は通史の要約のようなものになってしまった。興味のある項目あがあれば、『平安京』にはより深く詳しく記述があるので、そちらを一読していただけたらと思う。平城京から離れた地方の村のことや文化・宗教については他の本を読んで「小話」で書いてみたいと思う。

光仁朝の「官を省き役を息める」政策と挫折

道鏡を重用した孝謙(称徳)天皇が崩御した後、即位した光仁天皇は62歳という歳で臣下から押し立てられて王座に就く。光仁天皇は、多年酒に溺れる振りをして女帝の粛清から幾度も逃れてきた人物として知られており、即位するとまず道鏡とその近親を朝廷から一掃し、政治の立て直しを図る。

官人がやたらと多く人民を食いつぶしていた組織の人員整理を行い、地方の軍団制を整備し、「官を省き役を息(や)める政策」を行う。兵士制では辺境を除く兵士の数を大幅に減らし農民の課役を減らし、有力農民だけを徴収し農業経営を立ち直らせ、そこからの調・庸の収奪を一層確かにしようとした。施政10年にしてようやく「官を省き役を息める」政策を行い、道鏡時代の悪政からの脱却が現実のものになり始めたそんな矢先、東北で大きな反乱(伊治公砦麻呂の乱)が起きて多賀城が落とされてしまう。

光仁朝は成立当初から蝦夷の征討と懐柔にかなりの力を入れてきたが、この東国経営を大きく後退させる反乱は光仁朝に大打撃を与え、これにより気力尽き果てた光仁天皇は病気を理由に皇太子に位を譲ることになり、桓武朝が始まる。

桓武朝の「軍事と造作」の強硬政策

桓武天皇にとって、父光仁天皇が成し得なかった蝦夷征伐は一つの使命だった。血筋の良さが大きくものをいう古代では、天智系であり母方の血筋がそれほどよろしくない桓武天皇には天武系、特に聖武の血に繋がる者にコンプレックスが大いにあり、自身の威厳を示すためには誰もが納得できる大きな事業をする必要があった。その事業が軍事であり、遷都である。

桓武天皇はまず諸政の改革に手をつけ、造宮・勅旨の二省と法花(ほけ)・鋳銭の両司を廃止し官人の整理を行い、戸籍を作らせ浮浪人狩りを徹底させ、調・庸の粗悪、違期、未進に関しては前後のどの政府よりも厳酷な態度で地方官と農民に臨む。都の外では国司の圧政により、田畑を捨てて貴族や寺院の庄園に駆け込む農民が後を絶たなかったが、それを改善しようとする。

そして地方からの税を確保しつつ、軍事(蝦夷征討)と造作(遷都)を一挙に行うという大事業が始まる。蝦夷征討の準備、長岡京の造営、第一次征討、平安京の建設と、軍事と造作が並行して行われていることから分かるように、蝦夷征討と新都の造営はセットだった。長岡京の造営は寺社勢力から距離を置くため、また長岡の地に自身を支持する勢力がいたためだけでなく、蝦征討の際に不可欠となる人や物のルートを確保するためにも行われた。

長岡の地は河川を使った水運の便が平城京に比べてはるかに優れており、蝦夷征討により頻繁になった官使の往来、調・庸類の運搬、8世紀から増えてきた寺社・王臣家の庄からの収納物の運搬などの諸状況に着目したものであった。独力で役夫を雇って提供した者(3万人以上の役夫を提供したらしい)に外従五位下の位を与えているように、長岡京の造営は、当時寺院を建てるほどの力を持っていた有力豪族から労働力を提供させて造っている。しかし長岡京に遷都し造営長官の藤原種継が暗殺されると、その罪を弟の早良皇太子にかぶせ淡路国に流罪とし、長男で後の平城天皇となる安殿親王を皇太子にする。移送中に自らの無実を主張し絶食し憤死した早良皇太子の怨霊は以後桓武天皇は絶えず苦しめ、僅か10年で平安京に遷都することとなる。

平安京の造営には諸国の百姓31万4千人を徴発したといわれている。そして長岡京の造営時と同様に多くの役夫が逃げ、幾年にも及ぶ造営のための徴発は農民の生活を劣悪なものにした。蝦夷征討を行いながら、僅か10年の間に二度の造都をしたのは、まだそれをやってのけられるほどの力を古代国家がもっていたともいえるが、都造りのテンポはかなり遅くなり、造都に取りかかって7年後にやっと越前・丹波などの国々が平城京の門を壊して新京に運ぶという有様だった。

蝦夷征伐に関しては、788年(延暦7年)の第一次蝦夷征討は動員予定総数は5万人を超える大規模なものであり、東日本の富裕層の農民が広範囲にわたり徴発される。先の伊治公砦麻呂の乱以降、優位な拠点もなくスパイ網も完全に壊されている不利な状況で征討は失敗に終わるが、政府は何らためらうこともなく4年後に2倍の10万人を動員することを決め、全国の津々浦々まで、土着の農民だけでなく、浮浪人、王臣家の者を徴発もしくは軍備の金銭的負担を強いる。この年は坂東諸国では旱魃(かんばつ)のため凶作となり、疫病も蔓延しており、10万という空前の規模の軍隊の訓練、武具・兵糧の準備に3年間が費やされ、右大臣以下五位以上のすべての官人は鎧を作ることになるが、忘れてはいけないのが、この時期は長岡京から平安京へ移る時期である。

そして794年の元旦に第二次蝦夷征討が行われ、蝦夷の拠点75ヵ所を壊滅させたものの、目標の胆沢(いさわ)の地を攻略することはできず、769年には田村麻呂を征夷大将軍に任命し、4万の動員を計画し第三次蝦夷征討が行われる。800年(延暦19年)の9月の末までには戦闘は集結したとされているが、伊治公砦麻呂の乱から実に22年の歳月が東北の戦争とその準備に費やされた。帝王として誇るべき大事業、東北経営と遷都に取り憑かれた桓武朝の施政が、律令制の崩壊を加速させたことは言うまでもない。

桓武朝では勘解由使や問民苦使(もみくし)を派遣して私腹を肥やす国司を監督する政策が行われ、また、重要な地以外の国は兵制を廃止し、富裕な農民を兵役につかせる健児制が開始するが、平安京の造営と蝦夷征討の準備でただでさえ国司・郡司に負担を強いているなか、さらに刺激や動揺を与える強硬な態度を取れるはずもなく、目に見える効果が現れたかは疑問とされている。増税は更なる浮浪人を増やし、親王・王臣家・寺院の庄園は活気づき開墾ブームとなり、また、ろくに土地が与えらない半ば半身不随にまでなっていた班田も801年(延暦20年)には12年に1度となり、曲がりなりにもどうにか守ってきた6年ごとの班田収受は遂に維持できなくなる。

東国経営

大規模な蝦夷征討が行われる前の東国では、片や蝦夷の敵対心を煽るようなことをし、片や友好的に接するということが行われており、一貫した政策がなされていない。桓武朝が攻略すべき胆沢(いさわ、現在の岩手県奥州市水沢)の地では、王臣や国司が競って蝦夷の飼育した馬や人を買いあさり、場合によっては現地の住民や馬を露骨に略奪し、現地で反感を買っていた。その一方で、公民たちの間では友好的な物々交換が行われ、「国家の貨」であった綿が蝦夷に渡り、また甲冑はつぶされて蝦夷の農具となっていた。

征伐には蝦夷との闘いで過去に功勲のあった土豪・農民や裕福な農民の他に、坂東の「香取・鹿島の奴」も徴兵されているが、「香取・鹿島の奴」というは、捕虜として連れてきた蝦夷の後裔である。朝廷は以前から捕まえた蝦夷を各地に従属させており、また現地で懐柔した蝦夷も前線から切り離して諸国に分置しており(俘囚・ふしゅうという)、これが後に様々な問題を引き起こす。また、浮浪人も最前線の地に送り込まれ、柵を守りながら農業に従事している。浮浪人の中にはクーデターに敗れた貴族に仕えていた者もおり、東北の軍事施設では行政的に酷く差別され、これが原因で現地でも相当数の浮浪人が逃亡している。

軍事基地に送られた浮浪人や徴兵された兵は、武器を捨てて官人や軍の幹部のために彼らの耕地で働いていた。桓武朝はこの点を鋭く追及したが、なかば慣習化したこの事態が改められたのかは疑わしく、こうした状況が現地の農民の政府に対しての不信感を一層強め、征伐が一向に捗らない原因となる。東国の最前線には朝廷の威光などなく、無理をしてまでも大金をかけて軍備を整え、大軍を率いらねば胆沢の地は到底攻略できない状況だった。そうしたことが4巻の『平安京』の「征夷大将軍坂上田村麻呂」の章には書かれており、蝦夷征討に22年もの歳月がかけられたことが分かる。

親政三代

薬子の変後の嵯峨天皇の時代から淳和天皇・仁明天皇までの三代続く33年間は、天皇親政下の安定期といわれている。勧農を行い、文化を育んだ時期といわれるが、他方では国家体制はゆるみ、班田制は明らかに崩壊に瀕し、戸籍の制度も大きく崩されていった。

勧農ではこの時期から稲機(いなき)と水車が使われるようになる。稲機は刈りとった稲束を組んだ木にかけて日に当てて乾燥させるもので、干すこと栄養とうま味が増すらしい。水車は唐の技術を移入したもので、829年(天長6年)に淳和朝が諸国に命じて設置させている。更に治水にも重点を置き、池溝(灌漑用の池や水路)の修築を国・郡司から生産者に転嫁し、また、中央は国府の歳費に修理池溝料を計上し、出挙の利稲を池溝の修理費の財源とした。小さな破損は農民が修理し、大破は申請させてから国が修理代を出すことになり、この制度はその後長く採用されている。

親政三代の宴の催しは宮廷全体に「奢侈」の風を広める。宮中での贅沢は一つの刺激となり各地方に蚕糸の新規の技術発展をもたらし、品質の優れた生糸を貢上する国が伊勢をはじめ12国出てくるようになる。中央の貴族は交易によってこれらの国から上質な糸・着物を求めたため、それぞれの地域に小規模の市が開設され、手工業的商品の流通、平安京への商業ルートが確立されていった。

嵯峨天皇は50人もの子女をもうけ、身分の高くない母の子女は源姓を与えて臣籍に移し、仁明朝になると彼らの多くは政界に進出し、藤原氏の諸流に対抗する一大勢力となる。と同時に藤原氏と対抗するつもりはなく、娘を藤原氏に嫁がせ(天皇の娘が臣下に嫁ぐのは先例がなかった)、むしろ結託を強め、藤原北家の冬嗣・良房は政治的に極めて有利な位置を得ることになる。

嵯峨・淳和の二上皇は遊楽に没入し、宴会を開き琴を弾き歌い、歌を詠み、群臣に衣服を与え、年中行事に加え機会ある毎に臨時に詩宴を開くといった有様で、嵯峨・淳和・仁明の三代は前朝で蓄えられた遺産を存分に享受する。嵯峨ら三代が文雅の逸楽にふけている頃、朝廷の国政指導の実際面は藤原園人・緒嗣、小野岑守らが担い実績を上げている。彼らの指導の下、正史に名声と実績を残すいわゆる良二千石(善政をしく地方官)の活躍が見られ、極悪な地方官の中の例外的存在であり少数者である彼らが善政をもって地方行政にあたっている。

美辞でかざった良房の政治

仁明朝末期は政治の全局にわたって破綻をきたしていた。844年(承和11年)に京・畿内で班田が実施されようとするも校田にとどまり、平安京とその周辺、さらに諸地方の治安状況は嵯峨朝から大分悪くなる。朝廷は国司からの大量の貢物を受け、国司はそうすることで自身の官職を守る状況が依然として続いている。

承和の変で伴・橘の両氏を排斥した藤原良房は自身の権勢を強めることに執着し右大臣、太政大臣へと昇進していく。文徳天皇が若くして崩御すると9歳の清話天皇が即位し、良房が事実上の摂政となり、ここに藤原氏による摂関政治の始まる。口分田の荒廃は政治問題であったが、良房は何ら新しい手を打たず、班田は良房の執政期に一度もまともに問題にされていない。著者は「地方行政における中央政府の指導性は、意外なほど良房の時代に後退していることを指摘せねばならない」と述べている。

政治のたるみは直ちに治安悪化につながり、内裏の蔵殿の天皇の衣服の材料が盗まれるようなことが起き、都を離れた遠い地方では、讃岐の国では百姓が国司の暴政を訴え出て、対馬国では郡司らが300人率いて国司の館を襲い殺すということが起き、武力による問題解決が表面化してくる。これまで泣き寝入りしていた地方民、特に土豪・有力農民は襲撃や愁訴などの方法で抗争を開始し、国司を向こうに回して争うだけの力を蓄えるほどになっていた。

嵯峨に始まる親政三代の栄華は、文徳朝で揺れ動き傾くこととなる。そしてこの貞観の政府は、寺社あるいは権門勢家の荘園に対して不輸の特権を認め始め、庄園そのものを傾きかけた律令国家の新しい制度とした。

藤原基経・時平の意欲的な政治

良房からバトンを渡された基経は停滞を打破しようと積極に動く。凶作の翌年には官米を売って米価の抑制に乗り出し、畿内の中でも特に飢饉が甚だしい河内・和泉の二国に特使を派遣して窮民の救護に当たらせている。出羽で反乱が起こると、朝廷には武力で制圧する力がないことを知っており、良二千と謳われた藤原保則(やすのり)を送って懐柔政策で収める。そして、50年間放置されていた班田を国司の尻を叩いて実現させ、律令的支配の瓦解を何とか食い止める。

出羽国から国府の移動を変えるべきだと意見が出た際には、藤原保則をはじめとした出羽の国吏であった前任者3名に意見を聞き、参議と協議して問題を解決している。経基は優れた経験者の所見を聴取して事を決めるという姿勢で意欲的に政治指導に腕を振るった。同時に良二千が国政の第一線で活躍していた恵まれていた時代でもあった。

基経の死後、将来を有望されていた基経の長男・時平は21歳で蔵人の頭の要職を踏んではいたが、参議には加わっていなかった。これにより宇多天皇による親政が復活し、いわゆる寛平の治が行われる。良二千と謳われた藤原保則(やすのり)や菅原道真といった国政の第一線で奮闘してきた受領を参議にするといった思い切った、最高人事で親政がスタートする。寛平の政府は、公民・公地の体制の全面的崩壊をいくらかでも食いとめるために、諸院・諸宮・王臣家が郡司・土豪・有力農民とのあいだにもうけたルートを断ち切って、受領の農民支配を再強化しようとする。また、八省の管轄下にある寮・司を省に併合させ、官のスリム化を行う。

しかし897年(寛平9年)に右大臣源能有が死ぬと、26歳の若さで剛毅な時平が大納言になり、宇多天皇との対決が避けられない状況となる。宇多天皇は31歳という若さで幼帝に譲位すると、菅原道真は後ろ盾を無くすことになり左遷され、時平が実権を握る。時平は父基経に劣らず国政の立て直しに積極的で、だらけかかっていた国政改革を今一度路線にのせようとする。寛平の政治を支えた中央政府の中堅官人・受領は時平の政治指導に協力を惜しまず、朝廷は諸院・諸宮・王臣家と土豪・有力農民とが結託した堅い壁に立ち向かう。12年後に班田を実施することを命じ、調・庸の品質の粗悪、進貢の遅延に関しては厳しい態度を示し、地方民の権門寺社への田地・舎宅の寄進を厳禁し、さらには醍醐天皇の代以後の勅旨開田を一切停止する。

権門に相伝されてきた太政官府・民部省符のある庄園は認めるが、そうでない寄進地系荘園は潰し、積極的に税を増やし土豪・有力農民に追い打ちをかけるという、過去のやり方の蒸し返しではあるが、それなりの効果を挙げて税収を増やす。が、これは律令制の後退に歯止めをかけるに過ぎない。諸院・諸宮、そして時平自身を含む王臣家が、寄進地系荘園を自身の経済基盤にしていたからである。ここに政府の政策・改革が前進しない理由がある。

事なかれ主義の忠平の政治

39歳という壮年で時平が病没すると、強力な指導者を失った朝廷は悪状況へ向かう。時平の生前から退位した宇多上皇は朱雀院、河原院、六条院、宇多院、御室という具合に移り住み、風流を楽しんでいた。凶作・疫病が起ころうとも関係なく行われるこれらの宇多の王朝貴族の生活は、若い醍醐天皇をもすっかりとりこにし、宇多・醍醐の豪奢は仁明朝を凌ぎ、国政のなし崩し的破綻に拍車をかけた。親政三代の奢侈が文化を発展させたように、この時期は大和絵が生まれるなど文化の発展もあったが、天下の政治は忘れ去られ、かの有名な三善清行の意見封事が出されるまでにもなる。

醍醐天皇が譲位し8歳の朱雀天皇が即位すると、時平の兄・忠平が摂政となり中絶していた藤原氏による摂政が復活する。忠平は事なかれを建前とし、国政の引き締めに何の関心も持たず、中央の大官たちは延喜の治といわれる宮廷的逸楽の夢から覚めず、諸大臣が宮廷に出仕せずに様々な会議が流れることも珍しくなくなり、国政が蔑ろにされれる。受領の任命権を持つ王朝の大官たちは、表では受領からは豊かな贈与を受け、裏では土豪・有力農民からの贈与を受け、それを贅沢な財源としていた。朝廷が地方の引き締めに徹底できなかった理由は、この弱みがあったからであるが、地方ではそうした状況に変化が見られるようになる。

これまでは受領は任期中に権限をフル活用して蓄財し、それを平安京に帰ってからの政治資金にしてて猟官運動をしていたが、そんなことをせずに居心地のよい地方に住み着く者が現れる。地方といっても九州とか坂東の田舎・辺境の地に限らず、京を出ればすぐ田舎であり、畿内にもそうした者が増えていく。受領あるいは中・下級の貴族は畿内をはじめ七道諸国に土着し、強大な勢力を築き党的集団を形成し、その典型が後に大乱を起こす平将門や藤原純友である。

9世紀の後半から承平年間(931ー937)にかけて、群盗、山賊、海賊はより組織的に活動するようになり、諸地域から平安京に向かう納税品や庄園からの貢納などを狙うようになる。無事都に運ばれたとしても、今度は京の内外に拠点を持つ群盗が倉庫からそれを狙う。政府は検非違使の要員を増やすがそれでも改善しなかったのは、それにも増して群盗の数・力が上回ったからである。京で起こる火事も多くは群盗の仕業とされている。国府の内部でも変化が起こり、下級官僚が受領に反発し内部分裂が起こるケースが出てくる。受領の苛政・汚職についての資料を密かに郡司あるいは受領の後裔たちに提供し、受領攻撃に加担するようになる。

こうした状況のなか、平将門の乱と藤原純友の乱が起こるが、宮中を騒がした二つの大乱が起きた時、忠平の代には地方の諸情勢に通じた政治家はもはや一人もいなくなっていた。地方の事は受領任せにしており、中央の政治指導の実は既に半ば失われていた。将門も純友も早くから政府の無策ぶり、弱腰を見抜いており、それが原因で二つの大乱が起こったともいえる。政府は強力な常備軍を持たないどころか、京の検非違使の武力は京の内外にいる群盗にすら睨みがきかない有様で、東と西の大乱は律令国家の弱体を白日の下に晒しすこととなる。そして大乱を鎮圧したのは、同じく在地に根を張る旧受領系出身の押領使・追捕使たちであった。

二つの乱の後、忠平は摂政から関白になり、摂政から関白へというコースができる。依然、土着受領の末裔、土豪・有力農民の擡頭(たいとう)に怯え、政治は体たらくであり、朱雀は24歳の若さで譲位し、弟の村上天皇の治世となる。これには忠平の次男師輔の圧があったらしい。村上朝の初政の人事では関白忠平の長男実頼が左大臣、次男師輔が右大臣、師氏・師尹が参議となり、藤原氏の諸流合わせて9名が入閣し、藤原氏一門の歴史上これほど輝かしい栄華は過去になかったという人事となる。

天暦の治

忠平が死ぬと村上天皇は関白を置かず、18年間いわゆる天暦の治という、形の上では親政がとられる。しかし実際は忠平の長男実頼と次男師輔が実権を握り、国政指導は微弱なものとなる。

大切な政事についての会合に大臣以下の公卿の欠席が多く流れることが少なくなく、なのに宴となると活気づくという有様で、実際の朝廷での政務は中級以下の貴族・官人の手に委ねられることになっていた。彼らは都を出て、受領として地方民に抑圧を加え収奪の限りを尽くし、そのお陰で貴族らは宮廷や私邸で宴会を行えた。

952年(天暦6年)に政府は越前国の国府の下僚の申し入れで追捕使・押領使を停止する。両使の兵が国内を横行して農民を痛めつけているからだ。かと思えば、全く同じ時に出雲国では治安対策のうえから押領使の設置が要望され、それが実現されている。ここに古代国家の法(格)の統一性が崩れていることが見える。

天暦年間はその前後で平安京で洪水が増えている。鴨河の水路を京の東に変えたことが無理があり、また諸院・権門が鴨河から流水を庭園に引いていたのもあり、洪水が多くなった。度重なる洪水によって西京(右京)の大半の地域は年々さびれていき、また梅雨期の洪水は西京の低湿地に長く汚水を溜め、様々な疫病が発生し蔓延した。

天暦から天徳にかけての時期は幾つもの乱闘が起こるようになり、寺院の僧侶が、院の下人が、大工が武力での争いを起こし死傷するようになる。著者は「不和がすぐに武器をもっての闘乱に発展するところに、承平・天慶の乱後に成立した村上朝の時代の社会的特徴がいちじるしくあらわれている」と述べている。天台・真言あるいは南都の大寺の僧たちは、寺領庄園で働く農民や土豪と対立深め、紛争を引き起こし、寺社もまた貴族化するようになる。

日本の歴史〈4〉平安京 (中公文庫)
一つの展望台に達した古代国家は、律令制度を完成し、国富を集中して華麗な奈良の都を造る。貴族は惜しみなく富を七堂伽藍にそそぎ、民衆は悲喜交々の歌を万葉に託す。貴族と民衆の織りなすこの史劇を、古代人の心にわけ入って構成し、従来の奈良時代像を一新する。

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