暴力がはびこる平安京

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画像は年中行事絵巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

前回書いたように、平安時代の貴族の中には乱暴な者が少なくなかった。平安貴族の乱暴騒ぎは『殴り合う貴族たち』に詳しく書かれているが、天皇の前で取っ組み合いの喧嘩をするわ、逃げ出した貴族の部屋に石を投げるわ、酷いと壁を取りはずして部屋を壊してしまうわと、学校の歴史で教わるようなイメージとはおよそ及ばない性格だった。

上級貴族となるとさすがに、皆が皆そのような乱暴者だった訳ではないが、その下の身分となると内裏でもよく暴れた。そもそも貴族同士の乱闘の際に暴力を振るうのは彼ら従者であり、主人の指示がない時でも権力者の笠を着てやりたい放題に暴れ回る厄介な者たちであった。

『日本の歴史5 王朝の貴族』には蔵人頭の従者が殿上人の従者を突き殺すという事件が書かれている。主人の手水用のお湯を汲む際に、柄杓の取り合いから話がもつれてつかみ合いが起こり、刃傷ざたに発展したのだ。藤原道長の家司が他の公卿の従者たちと共謀して、道長の邸宅の倉庫から金銀を盗み出したことも道長の日記には書かれている。

当時の記録に出てくる盗賊の多くは、いわゆる無職無頼の徒とは限らず、れっきとした官吏であったり貴族などの従者であったりと、主人持ちの連中が多い。主人が主人なら家来も家来といったところだが、内裏の女官と皇太后宮の下人とが乱闘するという事件も起きていて、暴力的な貴族の女性も少なからずいた。

そして警備に当たる者も荒くれ者だった。天皇御座所のすぐ近くで内裏の警護を行う滝口の武士二人が抜刀して切り合おうとして捕まったり、平城京の警備に当たる検非違使が貴族の邸宅から物を盗み家を焼いたりするようなこともあった。盗賊を取り締まる検非違使の下っ端には「放免(ほうめん)」と呼ばれる獄を出てきた前科者が使われていて、隙を見ては狼藉を働いた。

平安京といえども名ばかりであって、まったく安らかな場所ではなかったのである。特に道長の死後、朝廷の威光が下がりなあなあな雰囲気が漂うと、盗賊の跋扈が目立つようになり、寺社の僧侶も暴力で解決しようとする者が以前よりも増え、東北で平忠常の乱が起き、天喜年間(1053年以降)になると末法の世に足を踏み入れていくことになる。

参考文献
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』中公文庫
繁田信一『殴り合う貴族たち』文春学藝ライブラリー(2018)

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