【小話】行基と知識

歴史小話

行基が橋を架け溜池を造り大仏造営に関わる事業に参加してその名を後世まで残したのは、大規模な社会事業を行ったからだ。これは、「知識」と呼ばれる無償で労働したり金品を出し合う信者を多く集めることができたことによる。行基が活動した当時、知識は既にあったようだが、それを社会事業に用いたのは行基であり、その点に行基の名僧といわれる所以がある(行基の前にも知識を用いて社会事業を行った僧がいたらしいが、今回は参考文献に沿ってそのようにしている)。

行基の活動は、信者を増やしていくにつれて朝廷に危険視され、しまいには弾圧されるようになる前期と、大仏造営に協力して朝廷からその活動を認められるようになる後期とに分けられる。前期は都の労役から逃れてきた浮浪人を保護し、浮浪人を出家させて托鉢させることで生活できるようにし、また托鉢で集めた物や寄進されたもので布施屋を経営して浮浪人の世話をした。

15歳で出家し37歳まで山林修行をした行基には薬草や病気治療の知識があり、布施屋を造り浮浪人の憩いと治療の場とした。和同元年(708年)に平城京の造営工事が始まると、政府の厳しい取り締まりにもかかわらず、労役から逃亡し浮浪する者が跡を絶たなくなる。逃亡者が路上で餓死する事態が増えるなか、行基は造営現場の周辺にいくつかの布施屋を建て、浮浪人を収容したのだ。

仏の教えを説き、救いを求める者は出家させ托鉢させることで浮浪人を保護したが、当時は天災や病気などで大切な人が死んだり、自分が奴隷のように扱われたりするといった、生きるうえで感じる理不尽さややりきれなさは、過去の行いによるもので、それは出家することでその因果から解放されると説いて信者を増やしていったようだ。

行基の活動によって瞬く間に信者の数は増え、朝廷の許可なく勝手に出家し集団で托鉢する私度僧が増え、指を灯したり皮膚を剥いでその皮に写経したりといった過激な行動をする者が出てくるようになり、更には家庭を捨てて出家する女子が増え、また信者の中には郡司級の中級官人(下級貴族)や郷長クラスの識字層の弟子も少なくなかったことから、朝廷は行基集団を危険視するようになる。

人の妻子が勝手に頭を剃って出家してしまい親や夫を顧みなくなることは、家族秩序の崩壊であり、男女が集団として合宿することは道徳的にも問題であり、社会問題として危険視される。女性の信者もその階層は男性と同様に、大半が京畿内の豪族・有力農民層・班田農民層・都市住民・官人層だったらしい。ついでに、平安期に盛んになる女性ゆえの罪業や五障を強調した布教活動はこの頃にはまだみられないらしい。

律令では人々を扇動した僧尼、宗教活動に参加して罪を犯した者は、杖で百叩きし、本国へ強制送還することを命じており、日毎に信者増えていく行基集団に対して朝廷は弾圧を加え解散させることにする。こうして朝廷からの弾圧を受けた行基は一度活動を中止するが、その活動を社会事業に方向転換することで活動を再開させる。これが行基の活動の後半部分となる。

僧院と尼院を別々に造り道徳上の問題を解消し、当時政府が行っていた橋や用水路・溜池などを造る土木事業を助けることで政府と同じ方向を向き、活動をしていくのだが、同時に、行基のこの活動は地域を活性化させていくことになる。行基は布施屋や僧院・尼院を造り大仏造営に協力しただけでなく、橋・道・池・溝・船息(おそらく港)も知識の手を借りて造っている。行基が造営した交通機関は物資の流通に係わる運送業者や商業者にその恩恵にあずからせることとなり、以後彼らから感謝され活動を支援されるようになる。

また、各地の土木技術者や須恵器・土器・瓦を生産する技術者、木工技術に従事する技術集団のそれぞれに、救済施設・交通施設・灌漑施設を建設したため、その土地その土地の活性化に大きな貢献をしている。伝統的な技術集団は、大陸から先端技術が入ると先進性を失い衰退していくものが少なくない。そのままでは衰退していく技術者たちも、行基に従って救済施設・交通施設・灌漑施設を建設することで衰退を免れることができ、雇用の継続・生活の維持の恩恵を受けるになった。

そして大仏造営にも協力するようになると、行基のこうした無償の労働は読経や浄行と同等の価値がある修行と評価され、国家に得度条件の修行として認められることになる。『続日本紀』の天平3年の8月7日の詔では行基に従う優婆塞・優婆夷のうち「法の如く修行する者は、男は年61以上、女は年55以上、入道することをゆるす」と書かれている。

行基の構成する知識は「行基集団」と呼ばれ、その数は唐招提寺蔵の『大僧正記』によると2千数百人にものぼるとされる(速水侑[編]『行基』)。終生畿内を出ることのなかった行基だが、日本の各地に行基の温泉開湯伝説が残されているのは、それだけ行基の名声が各地に広がったことを意味し、また行基の活動が後世にも大きな影響を後世にも与えたことを表しているだろう。

兵庫県の有馬温泉を筆頭に、石川県の山中温泉、山代温泉、静岡県の吉奈温泉、宮城県の作並(さくなみ)温泉、福島県の会津東山温泉、群馬県草津温泉、愛知県三谷温泉、京都府の木津温泉、長崎県雲仙の小浜温泉は行基の開湯とされている。

参考文献
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)

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