【小話】社会事業を行った名僧 行基

歴史小話

奈良時代を代表する僧に行基がいる。貧しい者に手を差しのべ、橋を架け溜池を造り、東大寺の大仏建立に多くの信徒を率いて貢献した名僧として知られている。民衆のために社会事業を行った行基に強く影響を受けた僧は後世も多く、また行基は終生畿内から出ることはなかったのにもかかわらず、日本の各地に行基が造ったとされ寺院や橋、温泉などの行基開基伝承・開湯伝承が伝えられている。

民衆の中に入り込んで布教する行基の活動は、律令から外れたもので当初朝廷から弾圧された。奈良時代の僧は国家のために活動をする官僧であって庶民のために活動するものではなく、民衆に説法をしたり施しをすることは禁じられていたからだ。僧尼は国費でその活動や生活が保障されている反面、今でいう公務員のようなもで、国のために祈祷を行い経典の研究をするのがその本分とされていた。

それでも行基は寺を出て民衆の中に入り、積極的に布教活動を行った。都の造営などの労役から逃げ出した者を保護し、布施屋を造り彼らに衣食や寝床を提供し、出家を許し托鉢することで生活できるように世話をした。托鉢することで浮浪人は何とか生き長らえることができたのだが、彼らに一握りの米やなけなしの食料を分け与える人がいたのは、行基の信者が行基の教えに従い施しをしたからである。

行基の信者は浮浪人に限らず家庭のある妻子や中級官人にまで及び、その数は増えていった。行基の信者が増え集団が大きくなると、朝廷は行基を危険視し「小僧」と軽蔑し弾圧に乗り出すことになる。この弾圧を受けて行基は一旦活動を止め、期間を置いて再度活動を始めるが、信者の力を借りて橋を架けたり溜池を造り土木事業をすることで朝廷からの弾圧から逃れることに成功した。

当時朝廷も土木事業は国家の重要な事業と位置づけており、蔑ろにはできないものだった。繰り返される遷都により財政は厳しく工事の費用も労働者の数も足りない中で、行基が労働者を率いて土木事業をするのは朝廷にとってはありがたいものだった。行基は活動を方向転換させることで政府と折り合いをつけたのだ。

行基の集団は「知識」と呼ばれるもので、無償で土木事業にあたった。集団には労働者だけでなく、工人と呼ばれる技術者がおり、また彼らを金銭的に支援する豪族などの富裕層もいた。そうした集団だったために、朝廷からの支援なしに橋を架けたり溜池を造ることができたのだ。

天平14年(743年)には聖武天皇と会見し、同15年には東大医の大仏造営の官人に起用されている。その功があり天平17年には僧侶の最高位である大僧正に任命され、その名声を全国に広めることとなる。

行基が造った橋は6、溜池は15、布施屋は9、信者が活動する拠点となる僧尼院は49といわれている。その他にも灌漑用の用水路や港を造り、『行基菩薩伝』には、僧院三十四、尼院十五、橋六、樋三、布施屋九、船息(せんそく・港のことか)二、池十五、流(溝と思われる)七、堀川四、真道一、大井橋一と記されている(速水侑[編]『行基』)。

大阪にある狭山池は行基が改修した溜池として知られており、狭山池博物館では古代から改修された歴史を見ることができるらしい。機会があったら見てみたいと思う。

参考文献
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)

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