行基は終生畿内から出ることはありませんでしたが、日本の各地には行基が造ったとされる寺院や橋、温泉などの開基伝承や開湯伝承が残されています。
このサイトでも紹介したことのある、東京の御岳山にある御嶽神社も、行基創建の伝承があります。それだけ行基の名声が日本の各地に広まったということでしょう。
行基のよく知られている功績は、奈良の東大寺大仏殿を造る時に大勢の民衆を動員したことです。行基の元に多くの民衆が集まり、無償で土木工事に従事し、そのため資金難で工期がかかる大仏殿の建立は無事成し遂げられました。天平勝宝4年(752年)のことでした。
行基はその功績が認められ、朝廷から仏教界の最高位である「大僧正」の位を日本で初めてもらいました。それだけ大仏造営が国家の一大事業であり、その貢献が認められたことが分かります。
しかし、行基は始めから朝廷と良好な関係だったのではありませんでした。朝廷から大仏造営の協力を求められるようになるのは行基の活動の後年であって、前年は朝廷からの弾圧を受けるほど敵視されていました。
行基が朝廷から敵視されたのは、民衆の中に入って布教したからです。当時は律令で僧が民衆に仏教の教えを説くことを禁止していました。
奈良時代の僧は今でいうところの国家公務員で、国家のために活動をするのが仕事でした。僧尼は国費でその活動や生活が保障されているので、国のために祈祷を行い経典の研究をするのがその本分とされていました。
ですので庶民に説法をしたり施しをするといった、庶民のために活動することは禁じられていました。
しかし行基は民衆の中に入り活動し、多くの貧しい人や身寄りのない人に手を差し伸べ、彼らが生活できるようにしました。そのため多くの人々が行基の元に集まり、集団ができました。
律令を守らず集団化した行基を朝廷は当然快く思わず、社会を乱すものとして警戒し、ついには弾圧します。こうして行基は活動できなくなり、集団は解散させられました。
朝廷に敵視された行基は活動の方針を変え、当時政府が行なっていた土木事業に協力するようにします。すると朝廷との関係は修復され、最終的には大仏殿の建立に協力してくれないかと頼むようになりました。
行基は知識という集団をつくって活動したのですが、それについては「行基と知識」で紹介しています。
行基の像は近鉄奈良駅の噴水にあります。東大寺に参拝する際は、大仏殿造営に多大な貢献をし名僧と崇められた行基を一目見てみるのも、おすすめです。
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【小話】行基と知識 | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)
参考文献
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)
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