【小話】金魚

歴史小話

奈良県の大和郡山市を歩いた時に、郡山の金魚の養殖の歴史を知った。面白かったので本を読んでみると、金魚は日本人の生活に身近な生き物であることが分かった。今回は日本人と金魚について、本で知ったことを書きたいと思う。金魚のことは、前回の「郡山の金魚の歴史」にも書いているので、そちらも見ていただければと思う。

金魚は夏の季語であり、夏の風物詩の一つとなっていてる、日本人に身近な生き物である。子供の頃は学校でも縁日でも金魚をよく見たし、昔は玄関に金魚の水槽がある家が多かった。しかしは金魚は古来より日本にいるのではなく、室町時代に中国大陸からやってきた生き物である。

金魚が史料に登場するのは3~5世紀頃の中国で、中国南部の揚子江流域に生息していたフナの仲間ジイが突然変異して鱗が赤い緋ブナが生まれたのが始まりとされている。珍しさから飼われるようになり、養殖が始まり、室町時代に朱印船で堺に持ち込まれ、江戸時代に養殖が始まった。

太平の世、江戸時代になると、金魚は娯楽として大名や豪商に飼われ、1尺の金魚が5両から7両(50万~70万)に相当したという。今でも品評会で優勝した金魚は40~50万の値が付くらしい(『金魚はすごい』)。江戸時代初期、加賀藩の御屋敷では初めて食べるものは金魚に試食させていたらしく、当時のお殿様の毒見用として飼われていたという話もある(『江戸創業金魚卸問屋の金魚のはなし』)。

江戸時代中期になると、養殖が本格化し全国で養殖されるようなり、金魚の値段が下がるようになる。本格的な養殖が確立したのが享保9年(1724)、甲府藩主柳沢吉里(柳沢吉保の長男)が奈良の郡山に国替えとなり、このときに下級武士18人に長屋を与え、金魚の養殖を推奨したのが始まりとされている(『金魚はすごい』)。

同じ頃、肥後藩(現・熊本県)の長州町でも藩の意向で金魚の養殖が勧められた。やがて江戸でも養殖が行われるようになり、江戸時代末期文久年間(1861~1864)には、大和郡山の金魚商人が、東海道の熱田宿に向かう道すがら、現在の愛知県・弥富に立ち寄った際、金魚を休めるために池を掘ったことがきっかけとなり、弥富でも金魚の養殖がスタートした。現在有名な金魚の産地は、全て江戸期の養殖に始まる。

それまで和金と地金くらいしかなかった金魚の種類は、1720年以降、琉金、オランダ獅子頭、ランチュウなど続々と増え、金魚ブームが過熱した。

江戸時代後期には桶たらいに金魚を入れて天秤棒にぶら下げ、売り歩く行商が現れ、また縁日で金魚すくいが行われるようになる。現在の和紙を貼ったぽいではなく、小さい投げ網を金魚の上からかぶせるように沈めて捕まえたらしい。そして金魚玉というビードロの容器に金魚を入れて鑑賞するようにもなる。

大坂の豪商淀屋辰五郎や田沼意次の待医がガラス水槽を天井にしつらえて金魚を泳がせたという記録があるが、これはどうやら疑わしいようだ。明治初期の浮世絵にも高さ1mもの水槽に金魚を泳がせている作品があるが、実在は考えにくく、想像と願望の産物であるとされている(『金魚と日本人』)。

とはいえ、丸太をくりぬき、両面にガラスをはめ込んだ水槽はあったらしく(『江戸創業金魚卸問屋の金魚のはなし』)、ガラスの水槽は当時の裕福な人の家にあったことが考えらえる。

金魚を飼うことはステータスであったのと同時に、金魚は縁起物だった。金魚は中国語で「金余(チンユイ)」と同音で金が余る、蓄財につながる吉祥の魚とされ、またメスは一度に3000~4000個の卵を産むことから飼えば子宝に恵まれるとされた。

江戸時代後期には、ひな壇に金魚を一緒に飾る風習が東北地方にあったというが、子宝や安産、子孫繁栄の願いの他に無病息災の願いも込められていたらしい。

江戸時代は鮮やかな赤い色には強い呪力があり、病魔、災厄を退散させるという、赤い色への信仰が全国的に支持を受けていた(『金魚と日本人』)。

江戸時代は子供の疫病だった疱瘡(天然痘)を逃れるために赤色の玩具を子供に持たせ、病気にかからないよう祈った。赤色の郷土玩具、例えば赤べこや鯛、馬、猿、牛、金時(金太郎)、獅子頭、海老、赤い舟にはそのような意味合いがあったという。

ついでに、ひな壇に金魚を供える風習は、東京の西多摩地方にもあったらしい(『江戸創業金魚卸問屋の金魚のはなし』)。

明治時代になると、犬や猫など動物をペットとして飼う概念がヨーロッパから持ち込まれ、金魚を家で飼うことが江戸時代よりもさらに庶民に普及した。明治時代の絵にも金魚玉が描かれているが、家で買う時は陶器や漆器、鉢に入れて飼っていた。ガラスの水槽が普及するのは昭和になってからである。

大正時代になると、金魚すくいのぽいが登場
し、針金で作った枠に和紙を貼るぽいが使われ、現在のかたちになる。

戦時中は蚊の駆除に金魚が役立ったと言われ、空襲のための防火用水に金魚を入れて、ボウフラを食べさせたなんて話がある。また、金魚を飼っている家には爆弾が落ちないというデマが流され、人々は金魚を買い求めたという。

しかし戦時中は贅沢が禁止され金魚が販売されなくなり、するとガラスで作った金魚のおもちゃが売られるようになり、これが売れに売れたという。

終戦後、昭和30年代に高度経済成長期に入ると、金魚売りが復活し町を歩くようになる。戦後には金魚玉もまだ残っており、リヤカーに水槽を並べて展示したり、桶で売り歩いたらしい。

金魚桶は職人が薄い木で作り、水の浸かる所まで漆を塗り、夏は涼しく冬は暖かく金魚が過ごせるようになっていた。歩きながら桶の水が揺れることで酸素を多く取り込むことができ、移動中でも金魚が酸欠にならなかった。冬に漆を塗り直すのは金魚卸問屋の仕事で、水の浸かる所まで漆を塗っていたという。

金魚売りの中には、夏だけ出稼ぎで地方からやって来てる者がおり、金魚を扱う問屋のお宅で寝泊まりするとが、昭和30年代後半まではあったようだ。そしてその頃に縁日の金魚すくいが復活する。

金魚の養殖地は奈良県の大和郡山と愛知県の弥富がよく知られている。郡山は日本最古の養殖地として知られ、弥富は発色がいいことで知られている。弥富の粘土質の土と鉄分の多い水
が関係しているらしい。本によっては違う場合もあるが、郡山は生産量が日本一で、弥富は生産している種類が日本で一番多い。

同じ種でこれほど多彩な色模様と形が出るのは金魚だけといわれている。日本では現在31種類の金魚がおり、中国や東南アジアを含めると100~200と推測される。尾びれや背びれにいろいろな形があり、ガラスの水槽が発明される前の、昔のように上から金魚を見ると、その綺麗さが映えるのだそうだ。

金魚40年生きるのもおり、多少水が汚れていても生き続けることができる。1℃~34℃の温度変化に対応でき、水温の変化に強い。震災の瓦礫や廃墟の水槽から生きた金魚が見つかった話は少なくない。

金魚の本を読むと、飼いたくなる。

参考文献

吉田信之『金魚はすごい』講談社新書(2015年)

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吉田智子『江戸創業金魚卸問屋の金魚のはなし』洋泉社(2013年)

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鈴木克美『金魚と日本人』三一書房(1997年)

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