概略
飛鳥時代の天皇家が豪族から一段優位な地位を確保し、統一国家を組織してゆく過程を書いた巻。扱う時代は、継体天皇が磐余に都を置いた6世紀から日本書紀の記述が終わりとなる持統天皇の譲位の7世紀の終わりまでとなる。
日本の古代史で華があるのは奈良の時代だといわれるが、その奈良時代を準備したのが飛鳥の時代である。総合的な国力では奈良時代より劣るかもしれないが、文化の質と高さでは引けを取らない。政治の面でも奈良の朝廷は一種の停滞が既にみられるのに対し、飛鳥の朝廷には上昇期の波乱と緊張がある。
従来の伝統をかざす有力豪族への対策という国内の問題と、白村江の戦い前後の国際問題の解決という国外の問題に挟まれながらも、それらの問題を解決するために、朝廷はまず政治組織を改革して国力を充実し、天皇家の地位を確立していく。豪族の排除、後継者争い、不満を持つ皇族の排除といった血生臭い争いが繰り返され、その末に天皇を中心とする中央集権国家が確立する。そうした流れを知ることができる巻。
読んでよかった点
文章が読みやすく理解しやすい。飛鳥・白鳳時代は自分にとって馴染みのない時代だが、分かりやすい文章だったため、どのような時代だったのか理解することができた。飛鳥時代を一言で表すならば、「天皇による中央集権国家がつくられた時代」といえるだろう。
飛鳥時代は律令国家であり、天皇中心の集権国家であり、軍事国家である。その前の古墳時代の日本は、各地の力の持った豪族による統一国家で、法の面でも軍事の面でも集権国家ではなかった。そんな状態から、国内をまとめ上げ、隋から進んだ法を取り入れ国内で整備し、権力を集めていく過程を、この本を読むことで理解することができる。
折角なので、、本を読んで学んだこととして簡単にまとめておこうと思う。本の中では更に細かく、そして深く書かれているので、興味を持った方は一読されるのがおすすめかと思う。
地方の有力豪族
中央集権国家を目指す朝廷にとって目障りとなる有力豪族は地方にもいたが、彼らが力を持つようになった理由は二つある。一つは農業の発展による経済力の向上で、もう一つは政府の権威の低下である。
四世紀末から大和朝廷は朝鮮半島の新羅・百済を圧迫し、任那に政庁を置いて属国のように支配しており、半島からの帰化人や貢物が大和朝廷には入ってきた。また中国からは称号をもらい国内の豪族に対して権威を示していた。しかし、五世紀末になると徐々に半島での優位性が薄れ、貢物は滞り軍を派遣するも芳しい結果が出ずむしろ派遣による出費が重なり、朝廷の権威は落ちていく。
そうしたなか、各地で生産力を上げ人口を増やし力を蓄えていった豪族は次第に朝廷のいうことを聞かなくなるようになっていく。各地で古墳が造られたのが、そのいい例である。
中央権力の強化
国内の統一を取り戻した継体天皇・欽明天皇はこうした情勢を解決するために中央集権を目指す。地方豪族を抑えるために各地に朝廷の所有物である屯倉を設置し、地方豪族の勢力を削る。国際問題では6万の大軍を率いて新羅を圧倒させようとした中、磐井の乱により失敗するが、国内の政治組織の改革は進められていく。
まず着手されたのが氏姓制から官司制への移行である。豪族が従来の伝統に従って自身の独自性・独立性を主張する氏姓制を辞め、天皇に直属する官吏が政務を行う官司制を推し進めていく。官司制の主導権を握っているのは、財政を抑えている蘇我氏である。蘇我氏は豪族連合を強化し、その連合政権の上に立ち権力を集め、天皇を実務から切り離して棚上げしたいと考えている。そのため、天皇としては将来的には蘇我氏からその主導権を奪うことが目標となるのだが、当面の間は蘇我氏と協力しつつ官司制を定着させていくことを目指す。官司制の方が氏姓制よりもまだ天皇の権力が集まるからである。
蘇我馬子の台頭
皇位継承を巡って蘇我馬子は厩戸皇子と共に物部守屋と滅ぼすが、これによって馬子は更に政治内での発言権を強めることに成功し、天皇の棚上げに成功する。天皇専制はこの時期、頓挫することになる。馬子は天皇家の基盤となる東国にメスを入れ、屯倉を内蔵(天皇の所有する土地)と外蔵(朝廷が所有する土地)に分け、朝廷領を増やして天皇専制に制限をかける。馬子としては、天皇の伝統的権威が朝廷権力の強化に必要であることを十分理解しており、伝統的な地位を尊重しつつも、蘇我氏を中心とする豪族連合による政治を行い、官司制の整備によって実権を握り続け、天皇を不執政な有名無実なものへとしていく。
聖徳太子の功績
聖徳太子は官司制の整備という朝廷の力を強める政策には馬子と協力し、中央集権の体制を推し進めるが、天皇の権威を強化しない政策には全力で関わらないようにした。馬子の政策に反対したり手を出さぬようバランスを取りながら、新羅遠征軍の主導権を握りその編成に関わり天皇家の軍事力を高めたり、対隋外交で天皇の地位を国際的に高めたりと、天皇の権力の強化を成功させた。朝貢によって一時的に日本国王の存在を世界に承認させただけでなく、留学生・学問僧を派遣して目標とする国家づくりの準備を着々と進めた。
対隋外交における聖徳太子の功績は特に大きく、天皇の地位は諸豪族から卓越したものになった。「天皇」という称号が使われたことによって、有力豪族の中で更に有力な者を意味する「大王(オオキミ)」という相対的に存在から、絶対的な「天皇(スメラミコト)」に対外的にも体内的にも天皇の存在が高められることになった。
入鹿暗殺
推古朝を支えた蘇我馬子と聖徳太子が亡くなると、蘇我蝦夷・入鹿の横暴が更に加速していく。父のあとを継いで大臣となった蝦夷は朝廷領や皇族領の土地・人民を切り取り自家勢力の拡大に努め、天皇を差しおいて勝手に大臣の地位をその息子蝦夷に譲る。入鹿は当時天皇が行う雨乞いの儀式を自身で執り行うほど、天皇を蔑ろにするようになっていたが、大臣となり朝廷で最高の席を得ると、聖徳太子の息子の山背大兄王を襲撃し殺し、天皇を操縦して専制権力者になろうとする。
入鹿は学の才があり家柄・地位・若さ故に怖いものはなかったようだが、専制を振る舞うことで蘇我氏が保っていた豪族連合の均等が壊れていく。反対勢力は蘇我氏からも出てくる。この時代は皇室に限らず有力豪族の間でも、族長権は兄から弟へ、伯父から甥へと傍系間に相続されることが多かった。それを馬子-蝦夷-入鹿と直系相続が続いたことで、蘇我氏内でも入鹿に対する不満分子が出てきたのだ。
そうした中、時期天皇候補であり入鹿にとっては将来的に邪魔な存在となる中大兄皇子は、入鹿の専制に危機感を持ち、藤原鎌足と協力して入鹿に不満を持つ分子を取り込み、入鹿暗殺を実行することとなる。
大化の改新
中大兄皇子と藤原鎌足による入鹿暗殺というクーデターが成功すると、皇権の強化が加速されていく。天皇を中心とする政治体制が確立し、中央集権体制が樹立し、公地・公民の制が成立していくこととなる。大臣・大連が廃止されて皇太子の下に左右大臣が置かれることによって皇太子の地位が高まり、多数の有力豪族が国司となって地方に赴き戸籍が作られ、公地・公民の制によって土地と人民が朝廷によって画一的に支配されるようになる。
仏教を政治の外に置かず統制し、隋・唐の大帝国から政治に関する知識を取り入れ中央集権国家をスタートさせ、地方の豪族に対しては官と位階を授けて特権的地位を保証して懐柔し、その代わりに私地・私民を皇族のものにしていった。
改新詔が事実だったかは不明であり、またどの程度実行されたのかは疑問だが、こうした方針が出されたことだけでも極めて大きな事業であり大革命だと著者は述べている。大化の改新によって中央集権は飛躍的発展することとなる。
白村江の敗戦
その後、天智朝での新羅に惨敗した白村江の戦いは朝廷にとってはせっかく集めた権力を崩しかねない大きな危機となるが、天智天皇は国内問題を上手く処理して更に天皇専制国家を進めていく。
過大な外征のための貢租や労役の徴収、人馬の徴発は国内からの不満の声を高めが、部曲の復活をはじめとした豪族優遇政策を行い、不満の声をかき消すことに成功した。水城を造り対馬・壱岐・筑紫に防人を置く国防は民衆にとっては大きな負担となったが、豪族を丸め込ませることでそのの声をかき消したのだ。この時代は皇族と結びつかない氏族だけの反乱はほとんど起こり得ないものであり、豪族を優遇した天智天皇にとっては問題ではなかった。
政権内では、有能な弟である大海人皇子を朝廷の首席におき、皇族の力を豪族よりも更に集めることに成功した。後に太政大臣にあたる地位をつくることで、左右大臣の上の役職を皇族から出す前例を作り上げた。
庚午年籍
中央集権が著しく進んだものとして、670年の庚午年籍が知られている。実物は残されていないが、奈良・平安時代の記録によって実際に戸籍が作られたことは確かである。大化の改新以前はいくら政府の力が強くても、国民の多くは中央の有力豪族や地方の国造や稲置の支配下にあり、その構成は分からなかった。国家が直接把握できるのは政府や天皇家に属する部民だけであった。この庚午年籍によって日本の家々が政府によって直接把握され管理されたことになるから、天智朝でいかに国家権力が強大になり中央集権が進展したのか、知ることができる。
壬申の乱
天智天皇は生前、息子の大友皇子を後継者にしたいという願いから太政大臣に任命する。その前から実質的にこの地位にいた弟の大海人皇子は、これにより邪魔者になってしまう。これには天武天皇の皇位を父子相続にする強い意志があったのだが、これは当時の伝統とは違うものであった。
天智天皇としては、大化の改新前とは違って、公地・公民の制は進行し庚午年籍によって全国の人民の直接支配もみ、有力豪族の勢力も落ち天皇や太政大臣の力も増えていたため、進んだ唐に倣って父子による皇位継承を進めても問題ないとの期待があったと思われる。しかし、太政大臣のポストにいた大海人皇子が天智天皇の後継者となるのは当時の常識であり、人望しかり実績しかり血筋しかり、大海人皇子が皇位継承するのが当然であった。
大海人皇子は天武天皇が病になると身の危険を感じすぐさま出家して隠れる。天智天皇の死後、息子の大友皇子が天皇となり(即位したかは意見が分かれるが)、山陵造営のために武器を持った人夫が大友皇子の仮住まいの近くに集まると、これに身の危険を感じた大海人皇子は遂に挙兵し、乱が起こることとなる。
皇親政治
壬申の乱は大海人皇子側の一方的な勝利に終わり、大海人皇子は即位し天武天皇となる。天武朝では太政大臣はもちろん、左右大臣もおかれず、畿内の有力豪族の代表が天皇の政治を助けるという慣行が打ち切られた。これにより皇権は更に強化される。
天武天皇は朝廷の最高首脳部を自分と皇后・皇子と近親者で固め、その下の高級官職に一般の皇族を配し、更にその下に有力豪族をおくという体制をとった。また、これまで位階の上に立っていた皇族間でも位をつけ階層を明らかにした。位をもっていないのは天皇・皇后とその皇子たちだけである。これにより、位によって階層差を明らかにされた皇族団の上に、皇族の中から天皇家ただ一家だけが抜きんでて強大な権力を持ち独裁者となる皇親政治が確立される。
中央の軍事力の強化
皇族の中には当然不満を持つものが出てくるが、そうした者に対しては軍事力を用いて排除することにした。壬申の乱では国家権力を握っているはずの朝廷側が、反乱軍側の天武天皇にあっけなく敗れ去った。政権をとった天武天皇としては、同じようなことが起きないように中央の軍事を強化させる。それまで地方豪族が握っていた兵士の動員権を国司に移行させ、地方豪族の伝統的な支配が兵制に関わらないように変えたのだ。
しかしそのままだと、壬申の乱で各地の豪族が自身に味方した時と何ら変わらない。地方豪族は不満を持ったままである。これを解決するために、天武天皇は、かつて国司の地方派遣によって首長としての多くの特権を失った地方豪族に対して、文官として中央に出仕する道を開いた。また、壬申の乱で味方した地方豪族に課役の免除や調・力役の半減も約束している。
大宝令の基
こうして天皇専制への道を着々と進めていく天武朝だが、この頃に仏教を保護しながら監督するという、いわゆる「国家仏教」の原則ができている。また国史の編纂がされ、天皇が絶対的地位にあることの証明がなされる。
大宝令の太政官八省のうち七省にあたるものも天武朝の頃にでき、飛鳥浄御原令制定が計画され、皇族を序列化し皇族をも天皇に仕える官僚の一員にしてしまう天皇中心の中央集権の体制が整うこととなる。
飛鳥浄御原令
天武天皇の死後、皇后の持統天皇が即位する前年に、飛鳥浄御原令が完成する。近江令が存在しなかったとすれば、これが日本における最初の総合的法典となるが、大化の改新後は田の面積や戸にたいして租税をかけていたのに対し、この法令では調や力役を個人に割り当てるようになる。
一人一人が個別に書き出された庚寅年籍が作られ、天智朝の頃は家族までを国家が支配するようになったが、これが持統朝になると更に家族の中の個人をも支配するようになった。いわゆる個別人身支配が成立したことになり、著者によるとこれが古代専制国家成立のもっとも重要なめじるしとなる。
地域ごとに支配していく国・群・里の地方制度もこの頃に完成する。かつての首長の特権をもっていた国造は国司の配下となり一地方官に過ぎない郡司に成り下がることは大化の改新後に示されたが、それが遂に現実となる。国司は次官やその下の役人も畿内から官吏が派遣されてくるから、郡司としては相当地位が下落することとなる。
藤原京での譲位
こうした地方制度の整備に対応して中央の管制も整う。八省が置かれ役人や事務員・技術員は下級の者まで入れると千人を超えるようにまでなり、飛鳥浄御原では狭くなる。職員の家族を含めると、その倍の数千人が棲む土地が必要となる。
そして藤原京が造られ遷都されることになる。
持統天皇は孫の軽皇子に譲位し、親から子への直系の譲位(実際は孫へだが)を認めさせた。生前譲位は例がないし軽皇子は15歳という若さである。しかしそれに対してもはや口出しをできるほど、他の皇族も有力豪族もかつての力は持ち合わせていなかった。
こうして持統朝で日本の古代国家は完成する。初めて統一国家としてのまとまりができる。国家権力が国内の隅々まで行き渡り、国民の一人一人を捉え民衆生活を上から制約するようになったが、それは同時に社会の安定を生み出した。そして古代文化が花開くこととなる。
感想
以上、有力豪族の集まりから天皇を頂点とする集権国家ができあがる過程が本には書かれている。より詳しく歴史を知りたい人にとっては、読み応えのある巻なので、一読するのがおすすめかと思う。
蘇我馬子と物部守屋の対立の構造や馬子が勝った経緯、聖徳太子の実像とその功績、東国が天皇家と縁のある国でそこをどのように統治するかで皇権の強さが分かること、古代国家の兵制、豪族の懐柔策など、その辺のこともより詳しく知ることができる。
今一つだった点
テンポよく読めて面白いが、書かれていることはあくまで為政者の歴史。庶民がどのような暮らしをしていたのかといったことや文化について、科学の進歩については期待した以上に知ることができなかった。自分にとっては読みやすく分かりやすかった文章だけに、その点が非常に残念だった。
著者自身巻末で限られた紙面では書ききれなかったことが沢山あると述べているが、その中に白村江の戦いが与えた外交政策がある。これは個人的にも知りたかった。白村江の戦いでは新羅だけではなく唐とも戦っている。戦死した兵士達の親族は、大友皇子が唐と国交回復したことにかなりの不満を持ち、それが壬申の乱に大きな影響を与えたと思うのだが、その辺について学者の意見を読みたいところであった。
繰返し述べているように文章は個人的は読みやすく分かりやすかったが、それでも内容を理解するには基礎知識が必要なことも分かった。これは中公文庫日本の歴史を数冊読んで実感していることだが、福読書として大学受験レベルの参考書が必要となる。自分みたいに日本史を学び直したいと思っている人にとっては、これ一冊でその時代のことがよく理解できるというものではない。分からないところをネットで調べたり、事前に通史を復習しておく必要があり、そうしないと理解できない部分が出てきて読むのに苦労する。
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