【小説のレビュー】中世『補陀落渡海記』井上靖

補陀落渡海記 井上靖短篇名作集 (講談社文芸文庫)
熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海&...

あらすじ
熊野にある那智の補陀落(ふだらく)寺の住職・金光坊(こんこうぼう)は11月に補陀落渡海をすることになっている。金光坊は61歳になるのだが、前住職が3代続いて61歳で補陀落渡海をしたため、世間ではいつの間にか、何となく61歳になれば渡海するものだという空気ができている。

3月に渡海することを宣言するも、まだ他人事で気持ちの整理ができていない。部屋に籠り読経三昧の日々を送り、補陀落渡海をするのに相応しい顔つきになりたいと思う。過去に自分が見送ってきた住職達はそれぞれ違った顔をしていたが、自分はそのどれでもない、自分なりの顔で信者に見送られたい。

そんなことを思いひたすら読経するが、月日は驚くほど速く過ぎていく。気づけば11月になり、補陀落渡海の日が刻一刻と近づいているが、未だ何の気持ちの整理もできていない。

本の紹介
題名にあるように、補陀落渡海を扱った本。「旅の拾いもの 日本一周4日目・5日目」で書いているが、補陀落渡海とは観世音菩薩が住むとされる補陀落山という極楽浄土に舟で向かうことである。僅かな食糧と灯りのための灯油を乗せ、四方の扉に釘が打ち込まれ出られないようにされ、極楽浄土に向けて舟が流されるものである。これは海上で死ぬことを意味しており、捨身(自殺)の一種である。

補陀落渡海についてはこちら。【日本一周4日目・5日目】和歌山県 熊野詣から知る日本の中世① | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)

小説の主人公である金光坊は、補陀落渡海の最中に逃げ出した実在の僧がモデルになっている。小説の中でも、補陀落渡海は僧侶自身の意思だけで行われるものではないことが所々描かれている。本来であれば、補陀落渡海は自分が救われるために行うもので、自分の欲のためのものである。極楽に行きたい、悟りを得たい、仏になりたいという、一種の欲を伴う利己的な行為であるが、小説ではそのように描かれていない。

金光坊が道を歩けば、信者は「渡海上人」と呼び賽銭を投げる。故人の位牌を寺に持って来て、一緒に浄土に持って行ってくれと頼む。中には、生きている自分の位牌を作って持ってくる者もいる。当の本人の意思を余所に、補陀落渡海することが当たり前という空気ができ、それを取りやめることは恐ろしくとんでもないことにことだと、容易に想像がつくほどの状況が創り出されていく。

補陀落渡海をする住職を見て、「ありがたや」と言う信者の姿が物語から想像できるが、そこには闇や狂気を感じさせる何かがある。物語の補陀落渡海は一種の自己犠牲や人身御供(ひとみごくう)を感じさせる。宗教の暗い一面を考えさせられる物語である。

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