【旅の拾いもの】日本一周4日目・5日目 熊野詣から知る日本の中世①

和歌山県

まえがき
よく熊野詣はこんな風に表されることが多い。

老若男女を問わず、貴賤を問わず
信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず

熊野の地は誰もを受け入れ、多くの人々の信仰を集めた
それが蟻の熊野詣といわれる所以である

旅をした時は、熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)はそういう場所だと思っていた。あたかも熊野三山だけが他の社寺にはない懐の深さを持ち、特別な信仰の地であるかのように思えた。そんな熊野の特異性に魅せられて、人々は蟻のように行列をなして、険しい山道を歩いて参拝したのだ。そう思っていた。

旅を終えて数年経ち、熊野三山に行った時の記事を本館(メインサイト)に書いていると、庶民がどのようにして熊野三山に行ったのか気になった。旅好きの身としては、やはり庶民の旅は気になる。伊勢参りのように平和な時代である程度インフラが整っている時ならまだしも、物騒で暗いイメージの中世の頃に、庶民が旅がすることなどできたのだろうか。安全だったのだろうか。旅の期間や費用はどのくらいだったのだろうか。どれほど遠くから参拝しに来たのだろうか。

そんなことが気になり、軽い気持ちで本を読んで調べてみると、疑問に思うことがどんどん出てきて、よく分からなくなってしまった。熊野信仰には懐の深さがあったのだろうか。信不信を問わず参詣者を迎え入れたのだろうか。浄不浄を問わなかったのだろうか。本を探しては読み、また別の本を探しては読みと、読めば読むほど分からないことが増え、何が何だかまとまりがつかない状態になってしまった。読んでいるうちに、熊野詣よりも当時の社会や庶民の生活、宗教といった歴史背景が気になってしまい、記事が一向に進まなくなってしまった。

疑問だった通り、中世は庶民が旅をするような平和な時代ではない。物騒な時代だ。人さらいや追い剝ぎは日常茶飯事だし、戦乱も多い。疫病や飢饉があり、課せられる税も重い。荘園の労働者が荘園領主に国司の乱暴を訴えた、紀伊国阿弖河(あてがわ。現在の和歌山県清水町)荘民の訴状は、歴史の教科書に必ずといっていいほど出てくる。「逃亡した農民の畑に麦を蒔け。さもなければお前らの妻や子供の耳を切り、鼻を削いで髪を切り、尼のようにするぞ(ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ…)」という有名な訴状だ。とても参詣どころではない。

日本の中世はそんな時代なのだが、そのような状況の中でも熊野詣をしている庶民がいたのも、また事実である。ではここでいうところの「庶民」とは誰のことなのか。

どうやら自分は熊野詣を勘違いしていたらしい。いつの時代も庶民が熊野詣をしていたと、無意識に考えていたがそうではない。中世という長い時代の中で、熊野詣をする人は変化していく。上皇、貴族、武士、村人、社会的弱者、と様々な身分の者が、その時代ごとに異なった参詣をしている。とても一括りにできるものではない。いろいろな参詣があったことを総合的に見ていかないと分からないが、それらを一つずつみていくと、中世という時代の宗教や庶民の生活が少し分かるような気がして、面白い。

旅の3日目の伊勢参りの記事から、この記事を書くのに2カ月近くものかかってしまった。まだまだ分からないことだらけで、熊野詣について語れるような状態ではないが、それではこの電車日本一周の「旅の拾いもの」が一向に進まないので、とりあえず書くことにする。今回は熊野詣について、時代に沿って書いてみたいと思う。メモ形式というのだろうか、個々の事柄について書いていくことにする。自分の中で整理しきれず、長々とした文章になってしまったので、興味のある項目を見ていただければと思う。間違いを書いていることが多々あるだろうが、読んでくれた方が何かしらの関心を持ち、本やネットで調べるきっかけになってくれたら、嬉しく思う。

熊野詣の大まかな歴史
「蟻の熊野詣」といわれるように、数えきれないほどの多くの参詣者が熊野の地を訪れた。しかし、熊野詣はその時代によって参詣者が異なる。大雑把に熊野詣の歴史をみてみると、一般的には上皇による熊野御幸が平安時代末期から盛んになり、鎌倉時代になると武士による参詣が盛んになり、室町時代になると庶民の参拝が盛んになり、これが最盛期を迎えると説明されることが多い。
そして、その後は応仁の乱をはじめとした戦乱の拡大により熊野詣は衰退し、伊勢参りにとって代わられるようになる。江戸時代の中期以降になると爆発的な伊勢参り(お蔭参り)が起き、熊野参詣は衰退するが、江戸後期になると紀州藩による神仏分離政策が行われ、更に衰退することになる。

蟻の熊野詣
蟻の熊野詣という言葉は、数多くの参拝者が熊野の地を往来したことを意味するものだが、これは後世に名付けられたものというのが、どうやら正しいらしい。現在は「蟻の熊野詣」という言葉が使われているが、古くは「蟻の熊野参り」が一般的であった(小山靖憲『熊野古道』)。

初めて文献に登場するのは、慶長8年(1603年)、イエズス会宣教師が書いた文書の中だが、この時代は既に熊野詣の最盛期は過ぎている頃である。蟻の熊野詣という言葉は江戸時代以降に、中世の熊野詣を指す時に使われたり、多くの参拝者が往来したことの比喩として使われたとされている。

熊野信仰が最も盛んだったのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけての院政期といわれ、蟻が行列を作るように多くの人々が列をなして熊野古道を歩いたとされる。しかしこれは上皇による熊野御幸のことであって、庶民の熊野詣が盛んになった室町時代の方が、院政期を遥かに超える盛況ぶりだったと書いている本の方が多い。個人的にも、数冊の本を読んだに過ぎないが、室町時代の熊野詣が最盛期だと思う。

庶民の熊野詣①
さて、熊野詣の始まりだが、一般的には上皇による熊野御幸が熊野詣の初まりと説明されることがあるが、その以前からも庶民による参詣は行われていた。大陸から仏教が入ってくる以前から、日本には古来からの信仰があり、その聖地として熊野に訪れる人がいた。那智の大滝や神倉神社の大岩はご神体として、多くの地元の信仰を集めた。

奈良時代になり、仏教が入り神道に溶け込むことで修験道ができると、熊野の山地で修行を行う行者が増えてくる。世俗的な官寺・氏寺から離れ、山の中に山寺・山房(さんぼう)を造り、そこを拠点に山中を修行する僧が出てくる(『熊野古道』)。

五来重の『熊野詣』では、公家の熊野詣はそれ以前からあった庶民の参詣を真似たもの、と言い切っている。上皇による熊野御幸が盛んな時代も、武士による参詣が盛んになる時代も、庶民による参詣は規模は違えど並行して行われていたというのが、実際のところだと考えられる。

死者の国熊野
熊野詣の歴史をみたときに、参詣する人が時代によって異なるのは、熊野信仰が時代によって変化したからだといえる。熊野信仰とはどんなものなのか。熊野はどんな地なのか。次に、熊野信仰についてみてみようと思う。

古代から熊野は死者の国と考えられたいた。熊野が初めて歴史に姿を現すのは、『日本書紀』である。日本書紀には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の葬られた土地として熊野が書かれている。伊弉冉尊は伊勢の祭神、天照大神の母神であるから、伊勢との関係が読み取れる。

五来重の『熊野詣』によると、伊勢を表とすれば熊野は裏になる。言い換えれば伊勢は顕国(うつしくに)で、熊野は幽国(かくれくに)となる。古代人は死者の霊のこもる国がこの地上のどこかにあると考えたが、都から見て伊勢の奥にある熊野を、死者の霊の集まる場所と考えた。熊野という地名は「熊がいる土地」とか「隈(すみ、端)にある土地」という意味ではなく、「暗い霊のいるところ」という、冥界を意味する土地だといわれている。

捨身
熊野は死者の霊魂が集まる霊場と考えられていため、山では捨身という自殺が行われることがあった。奈良時代の仏法説話を集めた『日本霊異記』には、熊野村で修行をしながら伊勢の国へ出た聖(ひじり)の話がある。この聖は、熊野の山中で麻縄で両足を縛り、その端を断崖の巨岩にくくりつけて、その上から身を投じて宙吊りになって死ぬという、妙な自殺(捨身)をした。

熊野にはこうした死に方で往生を遂げようという信仰が古代からあった。一般に古代霊場には捨身往生や入水往生、あるいは火定(かじょう)という焼身自殺によって、来世の安楽を得ようとする信仰があったことが知られている。熊野ももれなくそうした捨身が行われていたのだが、入水があったことも押さえておきたい。入水というのは、衣服に石を入れ、石の入った袋を首にかけて、海に沈み死んでいくものがよく知られていて、これは各地で行われていたのだが、熊野には補陀落渡海(ふだらくとかい)というものがあった。

補陀落渡海
これは生きながらにして海に流されるもので、捨身の一種である。熊野は山ばかりでなく海の彼方にも死者の国があると考えられており、海を渡って観音浄土に向かおうというものであるが、その実は捨身という自殺である。行者は小さな屋形船に乗り、出てこれないように外から扉に釘が打たれ、外光が入らないようにして、舟に閉じ込められる。舟には四方に鳥居をめぐらせ、帆には南無阿弥陀仏の六文字が書かれ、30日分の食料と灯火のための油を載せて、見送りの舟に曳かれて那智浜沖の帆立島・網切島まで行く。ここで帆を立て網を切って行方を定めず舟を流すのだが、舟はいずれは海に沈むであろうことは、明らかである(梅原猛『日本の原郷 熊野』)。

補陀落渡海は、『補陀落渡海記』という井上靖の短編小説の題材にもなっている。初めて知った時は、非常にインパクトがあったのだが、五来重の『熊野詣』によると補陀落渡海は必ずしも捨身とは限らず、水葬の面が強いとされている。補陀落渡海は死後の特殊な埋葬方法で、一応まだ生きている形にして葬るものだと考えられる。生きたまま舟に乗り込んで入定した者もいるらしいが、水葬の面もあるようだ。平安時代から江戸時代までの23件のうち(25件ともいわれている)、12件が室町時代の行われたことから、室町時代が最盛期だとされている。ちなみに、室戸岬も補陀落渡海の聖地だったようだ。

山でも海でも様々な捨身が行われ、死者の国とされていた熊野であるが、極楽浄土を願い命を絶ったり、死者を弔う場所だけだった訳ではない。那智の大滝や神倉神社の岩から分かるように、自然を神とする古代信仰があり、庶民が参拝をしていた場所でもある。

神道の三つの信仰
捨身は修験から起こったものであるから、仏教の思想である。熊野信仰には仏教だけでなく、神道も大きく関わっているため、次に神道についてみてみたい。

神道は大きく分けて三つの信仰から成り立っている。第一は山や海や巨木や巨岩などの自然物を神の依代(よりしろ)とする信仰で、第二は祖先の御霊を神とする信仰。そして第三は土地の神や農耕の神など水田稲作を起源とする信仰である。それらが一つになって成立したのが神道となる(新熊野神社のホームページより)。

一般的には、自然信仰は狩猟や漁業を生業としていた人の信仰で縄文人の信仰、祖先信仰は朝鮮半島から渡来した人々の信仰で弥生人の信仰、土地の神や濃厚の神などに対する信仰は水田稲作発祥地の信仰で、揚子江流域から台湾・沖縄本島を経由して伝えられた信仰といわれている。

熊野は元々は、本宮は熊野川を御神体とし、那智は滝を御神体とし、速玉は神倉山の岩を御神体とする信仰で、それぞれルーツの異なる個別の独立した自然信仰だった。そこに祖先信仰が入ってきて、本宮の神を素戔嗚尊(スサノオノミコト)、那智の神を伊弉冉尊(イザナミノミコト)、速玉の神を伊弉諾尊(イザナギノミコト)に割り当てたため、祖先信仰の基に体系化され一体化されていった(新熊野神社のホームページより)。

伊勢神宮との深い結びつき
先ほど伊勢を表とすれば熊野は裏になると書いたが、このように熊野は伊勢との関係が深く、地理的環境もあり、伊勢あっての熊野、熊野あっての伊勢であった。かつては矢ノ川峠を境として、伊勢と熊野は表と裏、陽と陰、生と死、神と仏という対立関係で意識されていた。

表と裏という関係で伊勢と熊野は表されるが、表裏一体というように、庶民にとっては伊勢と熊野は同体として信仰するもの、参詣するものだった。これを表している有名なものに、「伊勢へ七度、熊野へ三度…」がある。この続きは「お多賀様へは月詣り」が正しい。愛宕様とされる場合もあるが、それは江戸時代にいわれたことらしく、正しくは「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀様へは月詣り」となる(『熊野詣』)。

お多賀様というのは、近江(滋賀県)にある多賀大社のことで、天照大神の親神、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神を祀った神社である。延命長寿、縁結びの神として知られ、伊勢・熊野とならんで中世には信仰された場所である。

中世の庶民信仰では伊勢と熊野は密接な関係にあったが、これは古代的な熊野信仰が庶民にあり、そして伊勢路の利用が長い間盛んだったことを示している。鎌倉時代には庶民のあいだに、伊勢・熊野および多賀を同体として信仰することが盛んだった。熊野三山への参拝経路には伊勢路と紀伊路があるが、伊勢路の方が早く開けている。これは交通路の問題もそうだが、伊勢が熊野信仰と関係があったからだ(『熊野詣』)。

庶民の熊野詣庶民の熊野詣②
上皇による熊野詣は紀伊路が使われたのだが、それ以前から伊勢路が開けていたことからも分かるように、庶民による伊勢や熊野への参詣は以前から行われていた。細々としたものであっただろうし、地元の人によるもので小規模のものだったのだろうが、庶民による参詣があったことは間違いないだろう。熊野の山中で修行する聖が増えたことで、山寺や山房が造られたし、歌人の世捨て人が書いた紀行文の『いぬほし(10世紀後半~11世紀前半の話とされている)』にも本宮には庵室(あんしつ)という僧や世捨て人の住まいが多くあると書かれている。そうした施設で寝泊まりをして、数日かけて参詣したことも十分考えられる。

具体的にどれくらいの距離をどれくらいの期間で移動をしたのか、どれくらいのお金がかかったのかが気になるが、それを知る術はない。当時庶民が文字を書き日記を付けていた訳ではないだろうし、仮にそうであったとしてもそれが残っているとは考えられない。

先にも書いたが、五来重の『熊野詣』の中では、庶民の熊野詣の流行に刺激されて貴族の熊野詣が起きたと書かれている。貴族の石山詣や長谷詣ような物詣(ものもうで)も庶民から始まったものだと。個人的には非常に興味のあることなのだが、それを知る術がないのは残念である。

浄土の国熊野
熊野の信仰に話を戻して、表裏一体ともいえる伊勢と熊野との関係が切れるのが、上皇の熊野御幸が始まってからである。

中世的な浄土信仰の芽生えた院政期になると、古代的な「死者の国」だった熊野は、「阿弥陀如来の極楽浄土」あるいは「観音の浄土」として意識されてくる。このような古代原始信仰における他界が中世には浄土となる例は、高野山や善光寺にも見られる(『熊野詣』)。

浄土信仰とは、「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」という言葉から分かるように、穢れた現世(穢土)を厭(うと)い、浄土に往生することを希求するというものだ。浄土とは仏がつくった国のことで、有名な阿弥陀如来の極楽浄土の他に、釈迦如来の妙期浄土(みょうきじょうど)、薬師如来の浄瑠璃(じょうるり)浄土、観音菩薩の補陀落(ほだらく)浄土などがある。

浄土信仰は、平安時代中期に空也や源信などによって皇族・貴族だけでなく一般庶民の間にも広がり、この波が熊野にも来て、平安時代末期から鎌倉時代初期のかけての約80年間の院政時代に「蟻の熊野詣」といわれる熊野信仰の盛況が起こった。浄土信仰が盛んになった理由は、末法思想と不安定な社会情勢によるものだというのが、よく知られている。

末法思想
末法思想は仏教の予言思想の一つなのだが、釈迦の教えが正しく行わなくなり世の中が乱れるのが永承7年(1052年)と予言されており、この時期は人々の間に不安が広まっていた。社会情勢が不安定になっていくのだが、藤原氏の摂関政治が衰え武士が台頭し始め、治安の乱れが起こる。庶民の心の拠り所であるべき仏教界では腐敗堕落が顕著になり、人々の不安は更に増大した。こうした、社会情勢が安定しない中、不安が煽られ、浄土信仰が広まったのだ。

神仏習合により熊野では本宮に阿弥陀如来、那智に千手観音、新宮に薬師如来が祀られ、それぞれに極楽浄土、補陀落浄土、浄瑠璃浄土があるとされた。山の奥に、海の彼方に、浄土があると信仰されるようになる訳だが、「死者の国」熊野には元々黄泉の国の入口があり、それが浄土信仰の広まりによって浄土の入口と置き換えられ、熊野は「浄土の国」となるのである。

上皇の熊野詣
こうした浄土信仰の広まりによって院政期に上皇の熊野御幸が盛んになる。上皇の熊野御幸の流れを簡単に書くと、本格的な院政期の熊野御幸の前に、2回熊野御幸が行われている。一つは宇多上皇による延喜7年(907年)、もう一つは花山上皇による正歴3年(992年)である。この2回は単発ものもで、上皇の熊野御幸ブームは起こらないが、その後の御幸ブームに繋がるものとされている。

花山上皇の御幸からほぼ100年後の寛治4年(1090年)に白河上皇の熊野御幸が行われてから、以後熊野御幸が盛んになる。白河上皇が9回(1回目と2回目は26年、間が空いている)も熊野御幸をすることで、熊野信仰が熱狂的になり、それが続いていくことになる。鳥羽上皇は21回、崇徳上皇1回、後白河上皇33回(34回とも)、後鳥羽上皇28回、後嵯峨上皇2回、亀山上皇1回となる。後鳥羽上皇以降急速に熊野御幸が減るのは、承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇が北条義時に敗れたため、上皇方についた熊野も勢力を削がれたからである。

女院の熊野詣
上皇の熊野御幸とともに、その皇后(中宮)や妃などの女院が頻繁に参詣したのも、院政期の熊野御幸の特色である(『熊野古道』)。女院として最初に参詣したのは、天治2年(1125年)の鳥羽天皇の皇后である。以降、上皇と供に女院が熊野御幸をするようになり、熊野は女性も受け入れる信仰地というイメージを持つようになる。

しかし、小山靖憲の『熊野古道』を読んでみると、それよりも前に女性による熊野詣が行われていたことを知ることができる。白河天皇や鳥羽天皇に仕え、摂関政治から院政期の過渡期を公卿として生きた、藤原宗忠という人物が書いた『中右記』に、それが記されている。

宗忠自身が参詣した天仁2年(1109年)に、洪水のため橋を渡れなくなった見知らぬ女性に馬を貸したことが書かれているし、ごく普通の、身分の高くない女性が熊野を参詣し無事帰ったことも書かれている。ついでこの『中右記』には、同じ天仁2年に田舎(どこかは分からない)から来た盲目の参拝者が道でうずくまっていることも書かれており、盲人が熊野に参詣する途中で食料が尽きてしまったため、宗忠が食べ物を恵んでいる。

このように熊野では女院による熊野御幸が行われる前から、一般の女性による参詣が行われていたことが分かる。地方の武士や庶民といった一般の男性に先がけて、身分の高くない女性の参詣が早く見られることは注目すべきだ、と小山靖憲は『熊野古道』で書いている。

御幸、上皇(言葉の捕捉)
先ほどから「熊野御幸」と書いているが、上皇が熊野詣をすることを熊野御幸という。「御幸」とは、上皇・法皇・女院の外出をさす(天皇の外出は「行幸」という)。ついでに、上皇とは「太上天皇」の略で、天皇の位を後継者に譲った天皇の称号のことである。太上天皇は「治天の君」とも呼ばれるが、「院」と呼ばれることもあり平安・鎌倉時代にあった「院政」とは、ここからきている。

法皇とは「太上法皇」の略で、出家した太上天皇に送られる称号だが、上皇と法皇との間に法的な身分の差はなく、権力の違いもない。出家しているかしていないかで呼び方が違うだけで、法的な身分や権力の違いはないから、上皇だけでなく法皇もまた「院政」を行う。白河天皇が譲位すると白河上皇になり、出家すると白河法皇になる。白河天皇も白河上皇も白河法皇も、すべて同一人物である。

上皇・法皇が熊野御幸をするのは、天皇よりも自由な身分だったからだ。天皇は朝から晩まで、様々なしきたりに規制され、多忙を極めるため、自由な行動などできない。しかし、上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持ちながら、制度や慣例などを気にすることなく、自由に行動することができるようになる。そのため、院政を始めた白河上皇は、何度も熊野御幸をすることができた。そして院政期の鳥羽上皇や後白河上皇、後鳥羽上皇も、20回以上も熊野御幸をすることができたのだ。

つづく(次回は、上皇による熊野御幸とそれにより発展する熊野三山について)

参考文献
小山靖憲『熊野古道』岩波新書(2000年)
五来重『熊野詣―三山信仰と文化』講談社学術文庫(2004年)
梅原猛『日本の原郷 熊野』新潮社(1990年)

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