【小話】奈良・平安時代 国司の横暴

受領は倒るるところに土をもつかめ

受領たるもの失敗しても空手で帰るな、どんな場合でも利益を得よ、というこの言葉には平安時代の受領の貪欲さが示されている(受領とは現地に赴任した国司。平安時代になると現地に赴任しない国司もいて、それと区別するためにそう呼ばれている)。

平安時代の国司は、任期中に自身の特権をフルに活用して私腹を肥やし、農民を酷く痛めつけた。大宝律令がスタートした当初は、農民に稲作の知識を伝えて勧農によって税収を増やすそうとする国司の姿があったが、半世紀も経てばそうした姿勢は既になく、職権を乱用し規定外の税を収奪してそれを自身の懐に入れるようになった。

中公文庫『日本の歴史4 平安京』には、そんな国司に対して桓武天皇が出した法令が幾つか書かれている。桓武朝では蝦夷討伐と長岡・平安京遷都が国・郡司に大きな負担を強いたため、国司を引き締める法令がどれほど行使され、また結果を出したのかは疑わしいが、出されたそれらの法令から国司がどのような悪行をしていたのか知ることができる。

国司にはそもそも公廨稲(くげとう)の配分と任地での営田という特権が与えられていた。公廨稲とは、農民に政府米を貸し付けて三割の利息を取り、それで正倉(米蔵)の欠失分を補い、その残りを国司たちが配分して所得とする制度であり、営田とは国司が直接経営する田のことでである。

国司はその職権を乱用し、本来三割の公廨稲を五割という、規定を超えた莫大な貸し付けを行い、その利息をごっそりと着服した。また支給された営田の他に原野を開き耕地を買い漁り、農業経営を拡大していった。しかも、これは国司に限らず貴族や郡司、有力農民もやっていたことだが、自身の下田を貧民の上田と取り替え、また不便な口分田を便利なそれと交換し、領内の肥沃な土地を占有したのだ。

その結果、当然農民たちは痩せた田や荒れかかった口分田を押しつけられ、生活が苦しくなった。ある者は力づくで上田を取り上げられ、またある者は高利な貸し付けに首が回らなくなり生活の基盤となる田を取り上げられたのだ。これは既に729年(天平1年)の法令で指摘されており、桓武朝の半世紀以前から公地制の致命的な歪みとして問題視されていた。

また天平時代末期には、内乱の気配が漂っていたため朝廷は年間60日の雑徭を一挙に30日に縮めたが、国司はいつの間にかそれを元通りにしている。本来雑徭は官路の普請や池溝の修築といった公共性のあるものなのに、自身の土地を拡大するという私益のために農民を労働させ、しかも不法に期間を延長している。兵士として招集した農民を私的に農業に従事させた例もある。汚職によって得た米をその資金として使い、不足なら更に正倉の米を使い込むという有様だった。

このように思うままに私欲を満たしていた国司は、おいしいポジションから離れられる訳もなく、任期中に地方豪族の娘を娶り、任期が終了した後も自身が拡大した土地から離れず居座り、あるいは自分は都に帰り子供にその土地を経営させて、新任国司の徴税をちょろまかすようにもなり、税収面で問題視されることとなる。

国司がそんな有様だったものだから、領内の有力農民は出来のよいものは交易に回し、粗悪なものを官に送るようになり、調・庸の粗悪、遅納、未納が起こるようになり、また治水や灌漑をきちんと行う国司がいるものなら、たちまち「良二千石」(良吏のこと)ともてはやされるようになった。

参考文献
北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中公文庫
竹内理三『日本の歴史5 武士の登場』中公文庫

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