【小話】奈良時代 名国司として崇められた良吏 道首名(みちのおとひな)

『日本の歴史3 奈良の都』では、大宝律令がスタートした当初の貴族は高い理想を持ったものとして描かれている。8世紀始めの貴族の特徴は自らが実務をこなすところにあるとし、平城京の造営では労働者の数を貴族自らが割り出し現場で人を使い、赴任先の国では農業指導を行う存在として描いている。貴族本人だけでなく、その妻も農業に詳しく、作物を自分で育てることが珍しくないと書いている。

実務をこなし高い理想を持った貴族の例として、道首名(みちのおとひな)が紹介されている。道首名は国司として赴任した土地の民から、名国司と崇められた人物だが、元は律令に精通した貴族だった。大宝律令に選定に携わり、律令の施行に伴い各地で官人に律令の講義を行い、その後は落ち着く間もなく712年(和同5年)には遣新羅大使に任ぜられ新羅に渡っている。翌年新羅から帰国すると、筑後の国と肥後の国の国司を兼任し、5年の任期の終わる年に亡くなった。『続日本紀』には、若い頃から律令を修め官吏としての職務に精通し、死後は神として祠(まつ)られたことが書かれている。

道首名(みちのおとひな)は任地に赴くと、現地の百姓に農業指導を行った。国内の産業を盛んにしようと農業経営に関する規則を作り、田の畝(うね)ごとに果樹や野菜を植えることや鳥や豚の飼い方などを箇条書きにして、こと細かに指導した。時々村々に出かけて見回りをし、規則を守らない者がいたらその都度理由を問いただして処罰した。はじめ村々の百姓は彼を恨み罵ったが、実際に収穫が上がり結果が出るようになると、皆彼の言うとおりに農業にあたり、1、2年の間に赴任先の百姓は首名に感化されてしまった。

また、百姓を動員して堤を築き溜池を作り、耕地を拡大している。首名が造った溜池のおかげで干ばつの心配もなくなり、多くの百姓から感謝され、死後は各地で祠がつくられたり神社に祀られてたりした。熊本市にある高橋東神社では今でも道首名が祭神として祀られている。

参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫

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