画像は平治物語絵巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
奈良時代や平安時代を考える際に、王臣家の存在を抜きにすると分からなくなる。これまで天皇や摂関家、公卿、国司の動向に注目していたが、これでは理解が不十分であることを『武士の起源を解きあかす』を読んで分かった。奈良・平安時代がよく分からなかった大きな原因はここにあった。
王臣家とは、皇族の子孫に貴族(三位以上の上級廷臣)と準貴族(五位以上の中級廷臣)が混ざった存在で、国司よりも強く、地方で収奪する存在である。国司より地位が高いだけでなく、屈強な従者を揃えていて兵力も強い。一般的には院宮王臣家と表記されることの方が多いのかもしれない。
聖武朝の墾田永年私財法で王臣家は耕地を増やすようになり、嵯峨朝の頃には開墾競争が加速する。王臣家に頭の上がらない国司は、別人の名義を借りて墾田を買い王臣家の開墾を装って自分の土地を増やした。朝廷からの命令を受けて手強い王臣家を取り締まるよりも、命令に従わずに王臣家と結託して利益を出すようなったのだ。
仁明朝以降、天皇の権威が下がると、王臣家は天皇や朝廷に対立することも辞さないといわんばかりの態度を取るようなり、私有地の拡大に努めるだけでなく、京に運ぶ年貢を強奪するようにもなる。京都に入る年貢が減れば誰かしらの取り分が減る訳で、そうなるくらいなら先に年貢を押さえておこうとする王臣家が増え、一時期畿内各所では京に入ってくる年貢を待ち構えて強奪するようになり一切年貢が朝廷に入ってこない状況になったという。
この時に損な役割を押し付けられてのが、郡司である。国司は朝廷への年貢未納の責を問われまいと郡司に運搬させ、責任を回避した。しかも王臣家に略奪されたら、その分を弁済しろと強要した。国司が勝てない王臣家に郡司が勝てる訳がない。
こなると郡司の中から、運搬する年貢を王臣家に取られたことにして自分の物にしてしまう者が出てくる。中央貴族に賄賂を渡して個人的な関係を持って、王臣家に降る者が現れるのだ。また、武力を背景に自立する者が現れ、国司を襲撃したり、群盗となり略奪に走る者も現れるようになる。
中央の朝廷と地方の王臣家や国司のこうした関係が地方行政を混沌とさせてゆき、王臣家が現地の豪族と婚姻により血縁関係を深め、俘囚などの武力のある下従を囲み、武士団のような集団をつくりあげ、地方政府並みの勢力を維持するようになる。
王臣家が地方の最大の収奪者となり、えげつないことをするようになった背景には、貴族間の過当競争がある。古代の官僚制では官職は一定であり、そこからこぼれる貴族が多かった。皇族の子孫、あるいは中央の貴族の子孫であるからといって、必ずしも将来安泰ではなかった。
いい家柄に生まれ世間知らずの王臣家は、騙されて禄の絹・布・綿を安値で売ってしまい借金を作ることがあった。売るといっても当時は禄を売って得た銭を期日に返さねばならず、返せない者は負債者となる。安く買って市で売って利益を出す王臣家が、世間知らずの王臣家を手玉に取って搾取し、借金漬けにするのだ。金に困った王臣家は目先のお金のためにさらに禄を安値で売ってしまい、首が回らなくなり没落していく。
悪どい王臣家は安値で買い叩いた絹・布・綿を市場に出して利益を出す。郡司から略奪した年貢も市場に出す。王臣家の元には禄を買い叩く者、禄を高値で売る者、借金を取り立てる者が集まり、荘園とは別に経済的基盤を持つ者もいた。こうした弱肉強食の世界があり、ある者は畿内で、またある者は地方に定住し勢力を拡大していくことになる。
奈良・平安時代の官僚制は、過当競争から大量の落ちこぼれを生み出す構造だった。罷免されない限り終身在職でき、子供に相続させられる鎌倉・室町時代の武士の方がよっぽど貴族のような安定した制度の中にいる。かつて歴史学者は、武士が腐敗した貴族制を倒したといったようだが、幕府こそ純粋な貴族制である(『武士の起源を解きあかす』)。
王臣家がこれほど強大になったいった過程は『武士の起源を解きあかす』で分かりやすく解説されている。
参考文献
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす―混血する古代、創発される中世』ちくま新書(2018年)
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