【小話】奈良〜平安時代 律令制の下で有名無実化していく郡司②

以前「小話」で、律令制の下で有名無実化していく郡司について書いた。郡司が国司の下で中央政府から収奪されていく様子を、過重労働の面から書いてみた。戸籍作成をはじめとする膨大な文書作成業務が郡司に降りかかり、作業効率が低下し、割に合わないとう郡司の職を身内で押し付けったことを書いた。

そして擬任郡司という非正規の扱いを受けるようになり、郡司の文書業務は独占的なものから代わりの利くものとなり郡司の権威が堕ち、国衙に吸収されて消滅していく過程を書いた(中央政府や国司だけが悪かったのではなく、郡司の方にも法令を破って都合のいいように行動するという問題があった)。

しかし、それから何冊か古代の本を読むと、それは一面的なものに過ぎないことが分かった。過重な文書業務が郡司を反抗的にさせた大きな原因だったのではなく、もっと割に合わない仕事を国司から押し付けられていたのが問題であった。郡司が国家から収奪される存在であることには変わりはないが、事務的業務以外でも損な役回りを強いられ国司の都合のいいように扱われていたのだ。

郡司が国司に押し付けられた割に合わない仕事とは、年貢の輸送である。律令制が開始されると、年貢の輸送はそれまで郡司がやっていたのを国司が代行するようになる。それをいつの間にかまた郡司に担当させたのだ。なぜならば、京に運ぶ途中で王臣家に取られてしまうからだ。

郡司が貢物を持って京に入ると、党類を引き連れた王臣家が待ち構えており、その貢物を取り上げてしまう。警察のような組織は機能せず、権力のある王臣家は力づくで郡司が運んできた年貢を取り上げ、しかも挨拶の手土産をよこせといって郡司の私物の食料をも略奪する。抵抗したり応じなければ酷く郡司暴行し、いうことを聞かせた。

朝廷に入るはずの年貢が王臣家により略奪されれば、徴税が減り中央貴族の誰かの取り分が減ることになる。他の貴族は自分が貧乏くじを引かないようにと、我先に物流の上流で待ち構え、取りはぐれないために同じようなことをするようになる。略奪する際に債権回収と称して、多めに取る者も現れる。

国司が郡司にやったことは責任のなすりつけである。王臣家や中央貴族に逆らえない国司は、年貢未納の責任を郡司に負わせるために年貢を京に運ばせたのだ。完納できなければそれを弁済しろと強要し、郡司が年貢を運ぶために他国に入る際はその国の国司に賄賂を渡して通らせて、できない理由をあらかじめ潰しておいて、無理難題を郡司に押し付けたのである。

割に合わないことを押し付けられた郡司は、どうぜ王臣家の略奪を受けるのならと、王臣家に保護してもらうようになる。王臣家に降れば、その土地は国司が手を出すことはできなくなる。逃散する百姓と同じである。

また、いっそのこと王臣家に奪われたことにして、国司から預かった年貢を自分の物にしてしまう豪族も現れるようになる。奪った年貢の中からその一部を王臣家に渡して身の安全を保ったり、中央貴族に賄賂を渡して身の安全を図るようになったのだ。

そして天皇の権威が下がり始める仁明・文徳朝の頃から、いっそのこと気に入らない国司は殺してしまえと、国司を襲撃する輩が出てくるようになる。

郡司の消滅にはこうした背景もある。

強大な王臣家に降った郡司はそれで身の保障がされた訳ではなく、国司並みの過度な年貢の徴収や夫役を課せられたり、百姓のように借金漬けにされて身を落とすこともあった。

保身のために一部の土地を国司の支配下に置き、一部の土地を王臣家の勢力内に置くというようにリスクヘッジして自分の身を守る豪族も多く(『鎌倉幕府』)、また王臣家と国司の下を行ったり来たりする豪族もいた(『武士の登場』)。

「小話」の「地方の最大の収奪者たる王臣家」で書いたが、王臣家は王臣家なり過当競争を生き抜かねばならなかった。国司にしろ地方の有力豪族にしろ、生存競争を強いられ、百姓だけが生きるのに厳しい思いをしていた訳ではないことが分かる。

参考文献
中村順昭『地方官人たちの古代史』吉川弘文館(2014年)
坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』講談社学術文庫(2009年)
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす―混血する古代、創発される中世』ちくま新書(2018年)
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫

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