『武州御嶽山信仰』(西海賢二著 岩田書院)を読むと、御嶽山の御師の活動がどれだけ精力的だったのか、知ることができる。今回は御嶽御師の活動について、少し書いてみたいと思う。
御嶽御師の布教
近世の明暦年間(1655~1658年)になると、御嶽御師の精力的な活動が見られるようになる。30坊ある山上御師(山下含めると60坊以上)は近隣の農村から驚くほど遠い場所まで、日本の各地を歩いて渡り、檀那を集めていった。
御嶽神社に参拝することの現世利益を説き、講を組んで御嶽神社に参詣するよう勧めていったのだが、御嶽神社の御師は主に武蔵・相模を中心に活動した。まず檀那をつくり、それが定着したら檀家廻りをする。普通、夏廻り・秋廻り・冬廻りの三回の檀家廻りがあり、お札を配る。
享保期(1716~1736年)は村方三役層の名主・組頭の家に宿泊し、村の10~20軒の各家々を訪問し、配札をしたらしい。享保から宝暦(1751~1763年)にかけての布教が特に精力的で、以後御嶽神社は参詣者で盛況したとのことである。
御嶽御師の活動の範囲
武州御嶽神社の檀那は、埼玉・東京・神奈川・山梨・茨城・千葉・栃木・静岡と広範囲に広がる。遠隔地では福岡県に190戸、北海道旭川に16戸なんてのもある。現在の福岡や北海道まで布教した御師がいて、またその地から御嶽神社に参詣しに来た百姓(武士や商人かもしれないが)がいたことには驚く。
東京では三多摩地方、西多摩・南多摩・北多摩が多く、都心部は希薄。北多摩が特に多く、今の立川市・武蔵野市・三鷹市・府中市・昭島市・調布市・小金井市・小平市・東村山市・国分寺市・国立市・西東京市といった、とりわけ多摩川流域に武州御嶽山の檀那が多かった。
個人的に興味深いのが、栃木・群馬・茨城は個人の参拝があったことである。村の代表として一人で参詣するのならまだしも、講を組まず一人で参詣、もしくは講員一人の御岳講を組んで参詣している点である。その数も、明治期の台帳によると、群馬74人、栃木721人、茨城2790人と多く、その全ての檀那が実際に御嶽山に登拝したのかは分からないが、熱烈な信者がいたことが分かる。
檀那は主に農村地帯の百姓だったが、中には商人もいた。『武州御嶽山信仰』(西海賢二著)によると、純農村地帯が84%、商業中心地帯が16%の割合だったらしい。
御師の台頭
北は北海道、南は福岡という広範囲から熱烈な檀那を獲得していった御師は、次第に山上での発言権を強めて行くことになる。檀那が増えればそれだけ神社の収入が増えるからである。
前回御嶽神社の運営は神主-社僧-御師の三者で行われたことを書いたが、寛永期(1624〜1643年)までは蔵王権現社の勢力体系は神主権力の絶対化があり、それに社僧・御師が従属していた。しかし明暦期(1655~1658年)に御師が台頭してくると、神主は権現社の維持という体面上のものに過ぎなくなり、社殿修復一つとっても三者間での合議によって決められるようになる。
神主が社木・古木を伐り炭を焼いて青梅の街で販売したことに対して、御師が「わがままな振舞」として神主を訴訟しているケースが文献に残されており、御師が檀那を獲得していくにつれてその発言権を強めていったことが分かる。より合議や神社の運営を優位に進めていくため、御師は社僧を取り込み神主よりも優位な立場になった時期があった。
山上御師と山下御師
明暦年間に台頭し始める御師だが、御師がいたのは御嶽山の山上だけではなかった。現在の御岳山の御師集落は山上にあるが、江戸時代は山の下にも御師がいた。檀那の数は、山上御師が全体の86%、山下御師が14%とその数はかなり少ないが、1万8千戸の檀那を抱えていた(山上では12万1500戸の檀那を抱えていた)。
山上御師は御師業に専念するが、山下御師は農業をしながら御師の活動をするといった兼業である。参詣者の増える元禄期を境に山下も宿坊を始め、御師職を兼帯するようになったようだ。
御師の収入
御師の収入は主に檀那への配札と御師の経営する宿坊に泊まる坊入の二つであった。これについては次回の「御岳講 檀那について」で書くが、檀那が参詣する時の方が収入が多くなる。坊入の時は、檀那からその年の初穂料や特産品、場合によっては神楽の奉納、マキ銭料と言われるものがもたらされ、大きな収入となった。それだけに檀那の増加は御嶽神社にとって大きなものであった。
檀那の固定化・縄張りの形成
精力的な活動の甲斐あって檀那を増やし発言権も以前より強く持てるようになった御師だが、その後の勢いは自ずと停滞するようになる。三峰や大山、榛名などの関東の山岳地の御師による布教や、伊勢講・富士講・善光寺講などの御師による布教で檀那が増えなくなるのは当然の成り行きとなる。
檀那数が頭打ちとなると、御師間での縄張りが形成され檀那が固定化し、御師の自由な活動は制約されることになる。山上御師は、御師同士で団結して社務や冠婚葬祭を行い、時には神主に対抗しながら神社の運営を行うようになる。農村部とは違った御師による五人組制度ができ、月番制度ができ、五人の代表を御師惣代と称す御師による自治ができる。
そして活動の方は檀那の新規開拓は新田開発による新しい村への布教に留まり、自分の受け持つ檀那廻りがメインとなる。檀那は自分らの村の御師が決まっているから、御嶽神社に参詣する時は他の御師の所に泊まらないことになっている。そうした取り決めも御師間で決められたが、檀那数の少ない弱小御師は生計に困りその取り決めを破るもののいたようだ。
御嶽神社の興行
檀那が頭打ちになりこれ以上収入が得られなくなると、新しい興行を始める必要が出てくる。配札や檀那の登拝は定期的に行われるものの、その収入は必ずしも安定していた訳ではない。飢饉の時があれば不作の時もある。そうした時には檀那から得られる収入は減ることになる。
標高900mの山上にある御嶽神社は、台風による被害が少なくない。社殿や石段などの度重なる権現の修復は御嶽神社の窮乏化を招き、臨時の寄進を檀那にお願いするもそうした効果も一時的なものとなる。次第に自力更生ができなくなっていく時期が、江戸時代の御嶽神社にはあった。
これは幕藩領主階級に御嶽山に対する信仰が稀薄だったからである。徳川幕府により蔵王権現が建てられ、その統制下に入ったものの、社殿の改修費用は減る一方であった。幕府は徳川家と縁故の深い寺社や格式の高い寺社へは助成金を振舞ったが、そうではない御嶽神社は幕府からの助成金は望めなかった。
そうした中、経済的窮乏打破のため山内の開扉を行ったことが記録されている。現在で言うところの特別開扉で、秘伝の像を参拝できるものだろう。一種の興行として客寄せのために神楽も舞われ、参詣者によるお布施の増加を期待するものであった。
宝くじ
また、宝くじが行われたことも知られている。富くじと呼ばれる、今でいう宝くじが御嶽神社によって行われたのだ。宝くじそのものを取り仕切るのは江戸の町の町人なのだが、彼等に依頼して多くの参加者からお金を集めることもしている。
当時富くじは幕府からも公認されていた。元禄年間(1688~1704年)になると幕府の財政悪化が見え始め、各地で寺社の修復費用の不足が顕著となってきた。それでも元禄期はまだ幕府から台風によって壊れた境内の改修費が受けられたが、その後の享保期になると、もはや期待できないものとなっていた。幕府は寺社にかぎり修復費用調達のための富くじの発売を許可するようになったのだ。
とはいえ、その取り付けに5年もかかっている。実際に富くじが行われたのは天明年間(1781~1789年)らしく、修繕費を確保するのにかなりの時間がかかっていることが分かる。初めの興行は上手くいかなかったらしく、その後、江戸浅草で行ったらしい。
参考サイト:宝くじ(富くじ)については、青梅市郷土博物館の刊行物を参考にした。
商人への布教
富くじがきっかけだったのか、それとも新規檀那の獲得が頭打ちになってからか分からないが、御師はその布教先を江戸の町人にも広げていく。先ほど「範囲」の所で先述したように、檀那の商人の割合は全体の16%に過ぎなかったが、それでもその存在は大きかったようだ。
農村地帯の檀家が五穀豊穣を主な祈願内容にするのに対して、江戸町人社会の檀家は火難除け、商売繁盛といった現世利益が多い。奉納物も金銭的なものが多く、しかも多くのお金が入ってきた。講員数が少ないにもかかわらず、商人が檀那となるとその収入はかなりよかったのだ。
旅館業の開始
前回の「武州御嶽山信仰」でも触れたが、明治に入ると武州御嶽に限らず全国の御師は急速に衰退する。平民に組み込まれ帰農化を余儀なくされるが、御岳山という土地柄農業で生計を立てることは困難となる。檀那の多い大きな御師は建物を建て替えて観光業に対応したが、そうした余裕のない小さな御師は他の御師に講社を譲ろうとするような状況にまでなる。大きな御師も講社を断っており、それほど余裕がなかったものと思われる。
土地柄農作物を作って生計を立てるのが困難な御師は、山や畑の日雇仕事を副業にしたようだ。小さな御師の辛いところは、御師といっても完全な身分保障がある訳でもないのに、大きな御師と同等の神社に対する義務があったところである。神社に対する労力の提供はむしろ小さな御師の方が大きかったという。講員の拡大も先述の通り縄張りがあり自由な布教活動ができなかった。
そうした状況から、大正末年~昭和初期に旅館業を始める所が出るようになる。当初は「御師が宿泊業をするのはよくない」と反発があっが、宿泊業は都がすすめていたし(都民観光の家といわれていたらしい)、そうもいってられず現在のような旅館業が始まることになる。
現在の御師の活動
現在20数軒の宿坊・旅館があり、大体の御師の家が宿泊業を営んでいるが、現在でも檀家廻りをする御師がいるらしい。現在でも数十万人の講員がいて、お札を配布しているのだ。それだけ御岳山の御師が檀那と強い絆を保ってきたことが分かる。
『武州御嶽山信仰』には、「農業従事者が全人口の四分の一以下となった今日において、農業に関連した神札が現在もなお数万枚配符されていることは、取りも直さず近世中期の御師の布教活動による賜物であったことはいうまでもない」と書かれている。
~次回に続く~
参考サイト
青梅市郷土博物館
https://www.city.ome.tokyo.jp/site/provincial-history-museum/
参考文献
西海賢二『武州御嶽山信仰』岩田書院(2008年)
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