江戸時代初期、鎖国令が出される前の朱印船貿易の頃の日本の輸出品に、鋏(はさみ)がある。岩生成一著『鎖国 日本の歴史14』(中公文庫)には日本からの輸出品の一覧があり、そこには鋏がマニラに運ばれたことが書かれている。
それを見た時に、堺で発達したたばこ包丁と同じ性格のものかと気になった。堺のたばこ包丁は、南蛮貿易で日本にたばこが入ってきた時に一緒に持ち込まれたもので、日本で改良されたものだ。外来品よりも国内で造った方がよく切れ長持ちするということで、堺の鍛冶が造るたばこ包丁はその品質の良さが評判になった。
鉄砲と同様に海外の物をコピーして改良した例として、堺のたばこ包丁は日本人の特性や技術力・生産力を示すものとして知られている。鋏も同じように海外品をコピーして輸出したのではないかと思った。貿易を機に現在の洋鋏(2枚の刃を重ねたX型のもの)が日本で造られるようになったのか、もしくは、以前から日本で使われていたU時型の和鋏が、その品質の良さからアジア諸国で人気を高めたのか、そういったことがあったのではないかと思った。
そんなことが気になりネットで調べてみたが、残念ながら答えは得られなかった。簡単に分かるものかと思っていたが、鋏の製造についての記録が残されているのは早くても1600年後半で、その時には鎖国令が出て朱印船貿易が禁止されている。現在の洋鋏(2枚の刃を重ねたX型のもの)が広く使われるようになったのは明治になってからだから、堺のたばこ包丁と同じようなものではなかった。
調べてもはっきりと分からなかったのだが、おそらく海外に運ばれた鋏はU字型の和鋏だったのではないだろうか。それも海外からの需要に応えるかたちで輸出されたというよりは、海外に渡航している日本人向けのものだった可能性が高いと思う。現時点ではここまでしか分からない。
知りたかったことを見つけることはできなかったが、鋏の歴史を少し知ることができた。と同時に、鍛冶や金物のことも少し知ることができた。今回はその辺りのことを少し書いてみたい。
岡本誠之『鋏 ものと人間の文化史33』によると、鋏は1600年後半から1700年代に鍛冶の余業として生産されるようになったのだが、余業で国内の需要が賄えたことから、それほど広く流通したものではなかったようだ。徳川の世になり戦乱がなくなると、刀鍛冶の仕事は減り、余業で剃刀(かみそり)、小刀、毛抜き、糸切りはさみを造るようになった。
剃刀なら剃刀が、糸切りはさみなら糸切りはさみが、買い手が多くついてそれだけで経営ができるようになると、分業して剃刀や糸切りはさみを専業に作るようになり、そうした地域もあった、大半は刀を造りながらついでに造ったり、刀以外のものをいろいろと造っていたようだ。
美濃の関では古来から刀剣の名産地として備前の長船と東西で競い合っていただけあり、鍛冶師が剃刀や裁縫刀、毛抜き、鋏へと分業した記録が残されている。長船や関ほど知られた鍛冶の産地なら、刀以外の需要も多かっただろうが、そうでない所では鋏はあくまで刀の余業として造られたいたようだ。そしてそのうち、1700年代頃になると野鍛冶といって農具を造る鍛冶も出てくるようになるが、それはまた別の機会に書きたいと思う。
平和な江戸時代になると刀鍛冶の仕事はなくなっていったように思えるが、江戸が消費一方の大都市になるにつれて、京都・堺の鍛冶では江戸や諸国への金物の供給が追いつかないようになる。かつて刀鍛冶が盛んであった播州が復活したり、今でも刃物で有名な関(美濃)・越前(福井)・越後の鍛冶が盛んになるのだが、それは江戸で大火が絶えなかったことにも起因している。建築物に使う釘や鍋などの生活用品、農業に使う農具など、刀以外の製品の需要は大火の度に高まり、また人口が増えるとそれらの需要は増々大きくなった。
しかし、そんな中でも鋏の需要は高くなく、鋏専門の鍛冶が出てくるのは後になってからとなる。本を読む限りでは、鋏専門の店として記録に残されているのは文化3年(1806年)に堺で修行した鍛冶師が播州で鋏の製造を始めたとある。余業では早くから鋏は作られていたようだが(仏具として、盆栽・生け花の道具として、蠟燭を切るものとして、などなど)、それを専門としてそれなりに多く生産している記録が残るのは、1800年代になってからとなる。
鋏の歴史を見てみると、現在の形の基になっている2枚の刃を合わせたX型の洋鋏は朱印船貿易以前にすでに海外から伝わっている。唐鋏(博多鋏とも)と種子鋏の二つがある。
博多鋏は鎌倉時代頃に帰化した宋の鍛冶が博多に伝えたとされているが(南宋の商人が持ち込んだとも)、国内で生産されるようになるは幕末の頃である。明治維新後に廃刀令によって作るものがなくなった刀鍛冶が鋏造りに転業したのだ。
種子鋏は鉄砲伝来の時に種子島に明の商人か鍛冶師かによって伝えられたとされている。その前から明から伝わったともいわれれいるようだが、それがコピーされることはあまりなかったようだ。一時、江戸幕府成立前後だろうか、堺の鍛冶師が種子鋏をコピーしてそれに対して苦情を入れた記録が残っているらしいのだが、種子鋏が日本各地に普及することはなかったようだ。
X型の洋鋏が日本で普及するのは明治維新後となる。廃刀令の影響もあるのだが、床屋での需要が高まったのだ。しかし明治初期でも洋鋏を作るには材料の確保と製造技術が確立しておらず、普及するのは明治40年代頃だったらしい。輸入も追いつかず、床屋の鋏は足りなかったようだ。
ついでにその辺りの流れを簡単に書くと、明治10年(1871年)頃に友野釜五郎が洋鋏を作る。立野平作の方が早いともいわれ、同時期に二人の人物が作ったらしい。明治12、3年(1879~1880年)頃に洋鋼が輸入されるようになり、明治29年(1896年)に八幡製鉄所が兵器独立事業として創設される。洋鋏の原料が確保できるようになり、明治40年代に床屋で使われる西洋鋏が技術的にも作れるようになる。
江戸時代やその前に洋鋏が普及しなかったのは、鋏の原料となる鉄によるものだと考えられる。洋鋏は鋼(洋鋼)でないと作れず、日本に以前からある鋼(和鋼)は玉鋼という別の性質のもので、それでは洋鋏は作れなかったようだ。明治に西欧から鋼が入ってきても、しばらくは鋼を上手く使って洋鋏を造ることはできなかったとある。
日本の文化を調べてみると、鍛冶や鋳造に関わるものが出てくる。一口に鉄といっても種類がいくつかありよく分からない。鉄・鋼・鋳鉄とあり、鋳鉄の中でもねずみ鋳鉄、まだら鋳鉄と更に種類があるらしい。鉄器を造る方法にも、鋳造・鍛造という造り方の違いがあり、それぞれの違いもよく分からない。一口に鉄製品、鉄製造といってもいろいろな材料・製法・製品があり、その辺のことも知ってみると面白いのかもしれない。
参考文献
岩生成一『日本の歴史14 鎖国』中公文庫(2019年)
岡本誠之『鋏 ものと人間の文化史33』法政大学出版局(1986)
コメント