【小話 近代】一時期世界シェアを独占した明治から戦前までの日本の樟脳業

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画像は日本山海名物図会の第3巻樟脳製法 出典:国立国会図書館デジタルコレクション


鎖国期の日本の主要輸出品だった樟脳。薩摩藩と土佐藩は樟脳の輸出で莫大な利益を得て、それを倒幕の資金としたことから、樟脳は明治維新の原動力となったとまでいわれている。

てっきり樟脳が日本の主要な輸出品だったのは江戸時代の話かと思っていたが、『楠 ものと人間の文化史151』を読んで明治・大正時代の方が樟脳を生産して多くの利益を得ていたことを知った。明治時代といえば政府にお金がなかったイメージが大きいのだが、そんな中で江戸時代よりも莫大な利益を出したというのだから、樟脳が日本の産業、強いては経済に与えた影響は多大であったのではないだろうか。

今回は明治・大正期に隆盛し戦後に衰退する樟脳事業について書いてみたいと思う。

樟脳は楠の木を細かく切って煎じると鍋の蓋に溜まる露を、冷まして結晶化させたものである。江戸時代には医薬品や防虫剤として海外に大量に輸出された。鎖国期に多大な利益をもたらした樟脳の輸出は、明治になると衰えるばかりかむしろ増大し、第一次世界大戦が起こる大正期には更に需要が高まる。

明治維新の後も海外からの需要に応えるかたちで樟脳は輸出されるのだが、開国後はイギリス・アメリカの商人も参入してくるようになる。明治維新の前までは、日本から樽に詰めて運ばれた樟脳はオランダで加工精製され「オランダ樟脳」として西欧諸国に売り捌かれていた。オランダで精製されれることで、その市場価格は仕入れ値の100倍にもなったようで、外国にとっても樟脳の輸入は儲かるものだった。そのため、維新後はオランダの市場に他の国も参入してくるようになったのだ。

そうした市場の高騰により輸出高は約300t(50万斤)、やがて倍増して600t(100万斤)以上となる。そして次第にイギリスが日本が製造した樟脳の買付を独占するようになり、それに伴い貿易の中心も長崎から神戸に移る。

明治期に国内では大きな楠はほとんど伐り尽くされるほどの原料不足となるが、当時100斤にかかる生産費は約6円だったのに対し、市場での価格は24円となる儲けの大きい事業だったため、原料がなくなっても尚、樟脳の需要は高まるばかりだった。

明治元年(1868年)の全国の樟脳生産高は600t(100万斤)、明治20年前後には2500t(400万斤)あまりとなり、そして生産高のピークとなる明治24年には3000t(500万斤)もの樟脳が作られる。値段は5年前の2倍にもなっていたらしい。江戸期の輸出高のピークが明和2年(1765年)の16万1500斤(96.6t)だから、その差は歴然だ。

このように樟脳は明治になってから格段に貿易高が増えたが、その原因にセルロイドの発明が挙げられる。明治2年にアメリカのニュージャージー州でセルロイドが発明されてから、世界規模で樟脳の需要は更に高まることになるのだ。セルロイドは印刷・転写が容易であるプラスチックで、玩具、学用品、装身具、日用品にと幅広く転用されるようになる。成形が容易でどんな色にも着色できるのが、需要を高めたのだ。

日本に始めてセルロイドが入って来たのは明治10年、神戸といわれ、当時はその珍しさから櫛や簪(かんざし)、帯止などのアクセサリーに用いられた。珊瑚や象牙、べっ甲の代用品として高価なものの代わりに作られたようだ。

明治20年になるとあちこちでセルロイドの加工が始まるが、生地から加工した屑にアルコールを加えて練り直す小規模の再生加工に過ぎなかった。明治31年には、後にミツワ石鹸で有名になる丸見屋の三輪善兵衛が、透明セルロイドを作り、日本最初の国産セルロイド生地の製造に成功したが、工業として大量に生産するには莫大な資金が必要で個人の会社ではとても無理だということで断念して、石鹸事業に移行することとなる。

明治28年(1895年)に日清戦争に勝って台湾が日本の領土となると、台湾の楠を採ることができるようになり楠不足が解消されるようになり、セルロイドの工業的生産を国を挙げて取り組もうとする風潮ができてくるようになる。明治政府は製鉄、製紙、印刷、アルカリ、セメント業のように、いち早く欧米文化を吸収させたいと、多くの工業や産業を官営で始めたが、樟脳とセルロイドも国を挙げて工業化するようになった。そうして明治36年に樟脳は専売制となる。

日露戦争が終わると、三井財閥が政府と結びつき、明治41年にセルロイド株式会社を大阪府の堺に創立する。セルロイド工業は有事の際には火薬工業に転換できることも、その創立を後押ししたようだ。また、セルロイドといえば鈴木商店が知られているが、こちらも同年三菱と岩井商店と提携して兵庫県の網干町にセルロイドを造る会社を創立させる。

こうしてセルロイドの工業的生産が国内で可能になると、第一次世界大戦が起こり二つの会社は莫大な儲けを出すことに成功する。大戦が勃発したことによって、アメリカ、ドイツ、イギリス、イタリアなどのセルロイドを造っていた国は工場を軍需工場に転換しセルロイドを造る余裕がなくなり、日本に注文が殺到するようになったのだ。

先の三菱系の網干の工場では、火薬の製造に切り替えてロシアやルーマニアからの大量の火薬の注文を受けて儲けることになる。樟脳は無煙火薬の原料にもなるためそっちでの需要もあったのだ。無煙火薬は従来の火薬と違い、煙を出して敵から居場所がすぐに分かるといったことや、視界が妨げられるといったことがなく、また速射砲や機関銃等の自動火器を安定して打つことができ、発射薬として優れていたようなのだ。

一方、三井の堺の工場では、工場を拡張してセルロイドの生産で多大な利益を出す。こうして工場を拡張して増産をした日本のセルロイドの会社は、昭和12(1939)年には世界一のセルロイド工業国となる。

そんな状況も戦時中になると一変する。軍事資材でない樟脳は重要視されなくなる。戦争末期(昭和20年)には樟の根から取れる樟脳で航空燃料が取れることが研究され、樟脳の生産が始まるようになるが、日中は空襲警報が毎日鳴り、夜間は灯火管制で作業ができない状況では、あまり生産されなかったようだ。

そして戦後は1949年に1ドル=360円になると輸出高が激減。折からアメリカ・ドイツで合成樟脳が進出していたこともあり、日本の樟脳事業は以後縮小することになる。プラスチックの発展によりその後は医療品に使われる程度となり衰退した。

今では樟脳が大量に生産されることはないが、現在名の知れている日本製粉、神戸製鋼、昭和石油、サッポロビールといった企業が、かつては樟脳と関係のあったことは興味深い。先の鈴木商店は80もの会社を設立し、これら名門企業は鈴木商店を源流としている。

現在では使われることがないが、樟脳は鉱物の選鉱剤としても使われた歴史がある。金や銀、銅などの金属を樟脳油を使うことができるらしく、それを使うと採取率が上がるのだ。火薬やセルロイドの原料とされた樟脳をみてみると、日本の工業に与えた影響の大きさがよく分かる。

参考文献:矢野憲一・矢野高陽『楠 ものと人間の文化史151』法政大学出版局(2010)

楠 (ものと人間の文化史)
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