奈良時代に目まぐるしく出世した官人の例として、上馬養(かみのうまかい)が知られている。718年(養老2年)~775年(宝亀6年)に生きたとされる官人で、東大寺の写経所で校正係をしていた人物である。校正係の後に出納係となり、石山寺の造営事業にも携わるようになり、その後は寺の物品の売買や高利貸にも従事したという記録がある。
無位からスタートした上馬養は、最終的には正六位下(正六位上とも)になり、57歳の生涯を終えた。位階の昇進が異常な速さだが、これは藤原仲麻呂の乱の政治的混乱に上手く乗れたからといわれている。ノンキャリアとして全くの異例の出世で、極めて有能だったことが分かるが、それでも家柄の壁は乗り越えられなかったようで五位にはなれなかった。
位のない百姓でも位階を得られない訳ではなく、例えば五位以上の貴族・王臣の護衛や使い走りといった雑用をこなす資人・舎人は、庶民から採用されるのが原則とされており、位階を得るチャンスがあった。各地方の郡司は中央の貴族との結びつきを得ようと、国司を介さずに直接に贈りものをすることがあり、『続日本紀』には諸国の郡司が騎射に長けた者や力持ちの者を王族や貴族の宅に送っていることが書かれている。
百姓にも位階が得るチャンスがあったが、和同4年(711年)の規定で位階を得ることのできる資人は4分の1と規定され、その門は狭くなる。そして実際はがむしゃらに働いてもそれほど位階は上がるものではなかった。「小話」の律令制を支えた非正規職員の下級官人でも書いたが、長屋王家で舎人(親王で働く資人は舎人といわれた)だった出雲臣安麻呂は、ろくに休みもなく働いて13年後にわずか三階のみ位階が上がっただけだ。
上の上馬養の例にあるように、主人が権力闘争に巻き込まれたら昇進への道が大きく左右されるし、実際は広大な土地を寄進したり多額の金品を献上しないと大きな位階はもらえなかった。
それでも位階を得ようとする者が後を絶たなかったのは、やはり税の免除という魅力があったからだろう。無位の者が与えらる位階は外位といって、通常の位階(内位)よりも低いものだったが、初位でも位階があれば雑徭が免除となる。八位以上となると庸・調も免除となり、更に五位となると内位と同等の待遇を得られることが大宝律令で規定されていた。
先述の通りいくら有能だっとしてもノンキャリアの者が五位になることはあり得ない。しかし、地方豪族である郡司ならば経済力で得ることができた。
東大寺の大仏造立の際に銭や車(牛車か)、牛、土地を寄進した郡司級の地方豪族が外従五位下の位を授けれているし、平城京で中級官人を経て郡司になった生江東人(いくえのあずまひと)は100町の墾田を東大寺に寄進して郡司となり、その後も東大寺に尽し外従五位下になっている。
ただ、生江東人は初めは内位からスタートしたが、五位という貴族なみの位階に一歩ふみこむときは、外位にまわされ、内五位ならばつくいろいろな恩典から外れる(『日本の歴史3 奈良の都』)ようになっていたようで、やはり貴族との壁は大きかったことが分かる。
参考文献
中村順昭『地方官人たちの古代史』吉川弘文館(2014年)
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
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