奈良時代、東大寺の大仏殿の造営に多大な貢献をし名僧と言われた行基は、民衆のために生きる僧でした。行基が造った橋は6、溜池は15、布施屋は9、信者の活動拠点である僧尼院は49といわれています。
その他にも灌漑用の用水路や港を造り、『行基菩薩伝』には、僧院三十四、尼院十五、橋六、樋三、布施屋九、船息(せんそく・港のことか)二、池十五、流(溝と思われる)七、堀川四、真道一、大井橋一と記されています(速水侑[編]『行基』)。
行基がこうした大規模な社会事業を行ったのは「知識」を結成し、それを社会事業に使ったからでした。知識とは、無償で労働したり金品を出し合う信者の集団です。
行基は布施屋を造り、平城京の造営などの都の労役から逃れてきた浮浪人を保護し、また病人の世話をしました。行基は15歳で出家してから37歳まで山林修行をしており、その時に薬草や病気治療の知識を身につけたといわれています。
民衆に仏の教えを説き、救いを求める者を出家させ、托鉢することで生活できるようにしました。
当時は天災や病気などで大切な人が死んだり、自分が奴隷のように扱われたりするといった、生きるうえで感じる理不尽さややりきれなさは、過去の行いによるものと考えてられていました。行基はそうした民衆に対し、仏の教えを守り出家すればその因果から解放されると説き、その言葉に救いを求めた多くの人たちが行基の元に集まりまりました。
行基の活動によって瞬く間に信者の数は増え、朝廷の許可なく勝手に出家し集団で托鉢する私度僧が増え、指を灯したり皮膚を剥いでその皮に写経したりといった過激な行動をする者も出てくるようになりました。
また家庭を捨てて出家する女子が増え、信者の中には郡司級の中級官人(下級貴族)や郷長クラスの識字層の弟子も少なくなかったといいます。
妻子が勝手に頭を剃って(実際に頭を剃ったのかは疑問ですが)出家してしまい親や夫を顧みなくなることは、家族秩序の崩壊であり、男女が集団として合宿することは道徳的にも問題と見なされました。
ついでですが、平安期に盛んになる女性ゆえの罪業や五障を強調した布教活動は、奈良時代にはまだみられなかったようです。
律令では人々を扇動した僧尼、宗教活動に参加して罪を犯した者は、杖で百叩きし、本国へ強制送還することが決められていたので、朝廷は日に日に増えていく行基の集団に律令の執行を行うようになります。この時、朝廷は行基を「小僧」と軽蔑しその活動を弾圧したといいます。
朝廷からの弾圧を受けた行基は解散させられることになり、一度活動を中止します。しかし行基はその活動を社会事業に方向転換することで活動を再開させることに成功しました。ここが行基とそれまでの民衆に教えを説いていた僧との違いです。
僧院と尼院を別々に造り道徳上の問題を解消し、当時政府が行っていた橋や用水路・溜池などを造る土木事業を助けることで政府と同じ方向を向き活動していきます。
当時朝廷は土木事業を国家の重要な事業と位置づけていました。しかし繰り返される遷都により財政は厳しく、工事の費用も労働者の数も足りない中で、土木事業をしていました。ですので行基が労働者を率いて土木事業をするのは朝廷にとってはありがたいものだったのです。
行基のこの活動は地域を活性化させるものでもありました。橋・道・池・溝・船息(おそらく港)を知識の手を借りて造りましたが、これにより交通機関が改善され、物資の流通に係わる運送業者や商業者がその恩恵にあずかることになりました。彼らはその後行基の活動を金銭的に支援したといいます。
また、各地の土木技術者や須恵器・土器・瓦を生産する技術者、木工技術に従事する技術集団のそれぞれに、救済施設・交通施設・灌漑施設を建設したため、その土地その土地の活性化に大きな貢献をしたといいます。
技術者は大陸から先端技術が入ると衰退していく傾向がありましたが、行基に従って救済施設・交通施設・灌漑施設を建設することで衰退を免れることができ、雇用の継続・生活の維持の恩恵を受けたといいます。
行基の構成する知識は「行基集団」と呼ばれ、その数は唐招提寺蔵の『大僧正記』によると2千数百人にものぼるとされています(速水侑[編]『行基』)。
朝廷は行基の知識の力を借りることで、大仏殿の建立を無事やり遂げることができました。そのため朝廷は、行基に従って行う無償の労働は読経や浄行と同等の価値がある修行とし、これを行う者を正式に僧と認めることにしました。
『続日本紀』の天平3年の8月7日の詔では行基に従う優婆塞・優婆夷のうち「法の如く修行する者は、男は年61以上、女は年55以上、入道することをゆるす」と書かれています。
行基は終生畿内を出ることがありませんでしたが、行基の温泉開湯伝説は日本の各地に残されています。
兵庫県の有馬温泉を筆頭に、石川県の山中温泉、山代温泉、静岡県の吉奈温泉、宮城県の作並(さくなみ)温泉、福島県の会津東山温泉、群馬県草津温泉、愛知県三谷温泉、京都府の木津温泉、長崎県雲仙の小浜温泉が行基の開湯とされています。
それだけ行基の名声は各地に広がったのでした。
参考文献
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)
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