画像は平治物語絵巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
過酷な年貢の徴収から生活を守るために農民が武装したのが武士の起源だと、学生の頃に教わったような気がする。大人になって日本史を学び直そうと思うようになってから、さすがにその説を信用することはないが、今ではどんな意見が主流なのかと思い調べてみたら、武士の発生については決定的な学説がなく、統一されていないとのことだった。
武士の起源に関する学説には主に3つの説があるとされている(Wikipediaによると)。在地領主論、職能論、国衙軍制論である。
在地領主論というのは、地方の有力農民である開発領主が武力を蓄え、それが武士となったという説である。国司・受領からの不当な年貢の徴収に対抗するために、武力を蓄えた農民が武士団となったというものである。このような説が出たのは、ヨーロッパの封建制や騎士との比較で武士を見る明治時代の流れや、戦後のマルクス史観によるものであり、現代では過去のものとなっている。源平藤橘といったメジャーな武士団の説明も、この説では説明できない。
職能論とは、軍事に長けた者、軍事を専門の職とする京の集団が地方に下って行って武士となったという考えである。国司に任命された貴族が武力に秀でた者を従えたり、地方の反乱を鎮圧するために下向した貴族たちが、そのまま居座って勢力を拡大したという説である。この説では、武芸に励むだけの経済力がどこからくるのかという経済基盤や主従関係という人的基盤を説明できない。
国衙軍制論とは、職能論を克服するために出てきたもので、荘園や公領の領主である武芸に優れた有力農民が国衙で武士になったという説である。9世紀、10世紀に律令制の税制が行き詰まり、郡司が消滅し国司の力が増え国衙が大きくなる過程で、従来の国司がその所従に郡司や俘囚などの戦闘に長けた者を吸収していき、武士団ができたという説である。以前からあった説であるが、職能論に押されて影に隠れていたのが近年焦点が当てられるようになった。
在地領主論では、武士が「下から上へ」と発生したという考えに立っているが、現在では逆の「上から下へ」発生したと考えられている。また「地方から中央」へと波及したと説明しているが、これも現在では「中央から地方へ」広がっていったとされている。
また、武士は貴族あるいはその子孫がなったものであり、公の職務である。銃を持っていればヤクザが警察になれる訳ではないのと同じように、武力があれば武士になれる訳ではない。そうした理由から、在地領主論は現在では下火になっている。
かと思いきや、武士の起源は在地領主論か職能論かしかありえない、という意見もある。武士の発生をみたときに、関東中心の開発領主という図式と京都中心の軍事貴族という図式の対比で捉える考えがあり、それに従うと在地領主論は捨て去ることができないというのだ。
数冊本を読んでみたり、ネットで自分でも理解できるように比較的易しく書かれている論文を見てみると、職能論か国衙軍制論のどちらが妥当かというので、決めかねているような気がする。
個人的には、職能論で指摘されている経済的基盤は、国司・受領にあったと思われるし、強い主従関係があったと思えるので、職能論が近いと思う。国衙領で武士が発生したという国衙軍制論では、王臣家の存在が見過ごされているように思える。在地領主論はあり得ないと思うが、京と東国の図式で考えることを含めるのなら、これも妥当に思えて、よく分からない。
いろいろと書かれていることを読んでいると、武士は兵であって文官ではないという、定義付けから始まり、ますます分からなくなる。場所も京や東国だけでなく、全体的に捉えようとするとその範囲も広い複雑である。混乱してしまうので、あまり立ち入らない方がいいのかなと思ってしまう。
武士の発生について興味のある人は『武士の起源を解きあかす』(桃崎有一郎著)を読んでみるのもいいのかもしれない。本の中で武士は、貴族の子孫が中央と地方の双方の拠点を行き来しながら成長したのものであり、朝廷が「武士」としてのラベルを与えたことで「武士」という概念が定着したと書かれている。
京の貴族と地方に下る国司・受領の関係だけで武士の起源を述べているのではなく、地方で強大な権力を持つ王臣家の存在を交えて解いている。俘囚や群盗についてもふれていて、平安時代の地方行政がどのようなものであったのか分かりやすく解説している。武士についての記述に留まらず、古代から中世に移行する時期の動向が分かりやすく書かれていて勉強になる(レビューはこちら)。
参考文献
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす―混血する古代、創発される中世』ちくま新書(2018年)
コメント