幕末の不安定な状況で起きた一揆に武州世直し一揆というものがある。慶応2年(1866年)6月に名栗村(現埼玉県飯能市)で発生した農民暴動は、2日後には青梅・御嶽へ、翌日には五日市・田無へと波及し、武州・上州に散在する豪農や酒造家が次々に襲われ、土蔵が打ち壊されていった。わずか3日間で同じ農民の手で鎮圧されたこの武州世直し一揆は、関東で広域にわたり同時多発的に蜂起したことから、幕府に大きな衝撃を与えた。
この一揆に情報伝達として大きな働きをしたのが、御岳御師だと言われている。
一揆が発生した6月は、御師の夏廻りの時期と重なる。毎年6月になると御師が1週間から1カ月程度の檀家廻りをしてお札を配ることになっていた。この年も代参講が一段落した6月13日前後に、40人ほどの御師が一斉に夏廻りを開始した。同時に、夏廻りは秋と冬のそれに比べて、遠距離のものになっていた。入間郡・比企群、上野・下野に及ぶ遠距離であった。
御師が配札する場合、決まった宿に泊まる。名主や組頭といった村方三役層の家が多い。御師が着くと寄合が開かれる。慶応2年は異常気象が続いた年で、四月には大霜が襲い、五月になっても異常気象が続いた。作付や収穫を間近にした麦作も豊作を望むことができず、食糧事情の悪さと不作が重なり農民のやるかたない憤りが募ったようだ。
安政6年の横浜開港は農民の暮らしを変え、村のあり方を大きく変え農民の反感を募った。それに飢饉が重なり、関東の諸村には一揆や打ちこわしが勃発している。この非常事態を巧みに利用したのが悪徳商人で、穀物を買い占め売り惜しみをしてインフレを誘引し、短期間に巨額の富を築いた。
三多摩農村も、製粉業を営む穀物商・肥料商・伐った材木を多摩川に流して江戸に運ぶ材木問屋が江戸や横浜の商人と提携して増長している。彼らは地元や、あるいは更に範囲を広げた諸地域から多くの物資をより安く買い求め、それを高く売り、儲けを出しては物価の高騰を招いたのだ。
物価の高騰で零細農民は農業生産だけでは生計が立たず、僅かばかりの土地を手放す結果となり、農閑余業としての材木伐り出しや織物などに一時の救いを求めるようになっていった。農民たちの多くは富農や在郷商人達に、担保として多くの土地を提供させられたという背景があり、土地持ちでなくなった零細農民の憤りは武州世直し一揆に繋がることになる。
一揆の首謀者は名栗村の大工職人と桶屋職人の二人とされているが、一説では、同村の正覚寺(御嶽講の宿となっている)と竜泉寺の住職とされている(『武州御嶽山信仰』)。確たる史料は残されていないが、住職や御師達は檀家や一般民衆に唱導し、後に大規模になる世直し一揆を実行したとされている。
その情報伝達として、重要な役割を担ったのが、御嶽神社の御師達であった。
参考文献
西海賢二『武州御嶽山信仰』岩田書院(2008年)
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