岩生成一著『日本の歴史14 鎖国』(中公文庫)を読んでいた時、江戸時代初期の海外との貿易の輸出品に硫黄という文字が書かれていて目が止まった。現在のベトナム・カンボジア・タイに日本の硫黄が、朱印船貿易で輸出されいることが本に書かれていた。
日本人にとって硫黄はそれほど珍しいものではないだろう。生活に身近なものかといえばそうではないが、観光地や温泉のある所で一度は嗅いだことがある人は多く、希少なものだという感覚はあまりなのではないだろうか。日本は温泉大国・火山国だから、そう考えれば硫黄がたくさんあってもなんら不思議ではない。
しかし、考えてみれば火山や温泉というものは中国やヨーロッパでは当たり前にあるものではないから、外国からすれば希少なもので、日本にとっては恵まれた天然資源だったのかも知れない。
そんなことが気になり調べてみると、江戸時代よりも平安時代中期から鎌倉時代中期の日宋貿易の頃に、硫黄が多く輸出されていることが分かった。日本史リブレットの『入宋貿易と「硫黄の道」』に詳しく書かれていることが分かり、早速読んでみると、確かに中国大陸ではほとんど硫黄が採れないため、日本から多く輸入していたことが書かれていた。
宋が日本から硫黄を輸入した理由は、爆薬を作るためだ。硫黄は着火剤や薬としても利用されていたが、それはごく僅かで海外から輸入するほどでもなかったようだ。中国では世界史の中でもいち早く火薬を発明をし、それを武器として用いたが、火薬の原料となる硫黄は国内ではほとんど採ることができなかった。
そのため、大量に、そして短期間で硫黄を運ぶことができる日本との貿易に力を入れた。1084年には宋が日本から50万斤(300t)もの硫黄を買い付ける計画があったことが文献に残されている。当時の宋は隣国の西夏と対立と講和を繰返していたが、西夏との戦争に備えて100万以上の火薬兵器を含めた大量の兵器の緊急配備が命じられていたらしい。
宋と同盟を結んで良好な状態であった遼との国境ですら平時100万人もの兵士を配備していたらしく、関係が不安定だった西夏との国境ラインには大量の兵士と武器が必要だったのだろう。そうした背景があって、日本からの硫黄の大量購入計画が進言され、それが記録に残されたようだ。
その計画が実行されたかは分からないが、それだけの硫黄の購入が見込まれたことから当時日本には多くの硫黄が産出されていたことが分かる。現に入宋貿易では定期的に硫黄が日本から宋に運ばれている。硫黄はトラストといって船を安定させるために船底に置くのに都合が良かった。
ちなみに鎖国期の対外貿易では、オランダ船や唐船は日本で高く売れる砂糖をトラストとして積み込んでいた。日本からオランダや中国に輸出された醤油も、堺から長崎に運ぶ時にトラストとして唐船の船底に積まれていたらしい。
硫黄の産地は、硫黄島だった。それと沖縄諸島の硫黄鳥島。意外にもどこでも採れるものではなく、当時の技術では大量に採取するには場所が限られていたようだ。
硫黄の産地については国内の古い文献に残されており、続日本紀には相模・信濃・陸奥などの国からの献上が記録されており、肥前国風土記では現在の雲仙岳にあたる温泉からの産出が記録されており、延喜式では信濃・下野などの国からの献上が記録されている。これらの産地はネットにも載っていて、自分もそこが産地だと思っていたが、『入宋貿易と「硫黄の道」』によると、これらの記録にみえる硫黄はいずれも薬用だったらしい。
火薬原料としての硫黄は硫黄島が主な採掘地で、そこから宋に運ばれた。硫黄島は薩摩・肥前・博多と航路が繋がれていて、硫黄島で採れた硫黄は博多に運ばれ、博多の港から宋の商人によって大陸に送られたようだ。ついでに、硫黄島では昭和30年代まで硫黄が発掘され続けたらしい。
世界に目を向けてみると、ジャワ島の東部と紅海付近(紅海を挟んで東のアラビア半島と西のエジプトのあるアフリカ大陸)で採れ、インドに運ばれ、それが中国へ送られた。当時の中国は世界の各地から硫黄を輸入しており、商人や硫黄を採掘する人、運ぶ人と多くの人が硫黄に関係していたことが分かる。
知りたかったのは鎖国期の輸出品としての硫黄だったが、おかげで日宋貿易のことも少し知ることができた。またの機会になるが、硫黄は明治期になるとマッチや工業に使われるようになり、国内で大掛かりな採掘が行われるようになる。採掘の過酷さが問題となった北海道のアトサヌプリの硫黄鉱山や、東洋一の産出量を誇った岩手県の松尾鉱山のことも、今回硫黄に興味を持ったおかげで、知ることができた。
これを期にいろいろと調べてみたいが、それをすると一向に「旅の拾いもの」電車日本一周編が終わらないから、またの機会にしようと思う。
参考文献
岩生成一著『日本の歴史14 鎖国』(中公文庫)
山内 晋次『入宋貿易と「硫黄の道」(日本史リブレット)』 山川出版社 (2009)
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