なぜコンビニよりも寺の方が多いのだろうか。そんな疑問から寺社に興味を持つようになりその歴史を調べていくうちに、昔の寺社のさまざまな活動を知った。強訴・焼き討ち・金貸し・訴訟・荘園経営・会計と、祈祷や経典研究、病院、教育など本業とされる活動以外のものがあったことを知った。特に中世(ざっくり鎌倉~室町期)はむしろそっちの活動の方が盛んだった。
そうした利権争い、金儲けに精を出した中世の寺社の活動の一つに、貿易がある。中国大陸との貿易である。高校日本史でも習うので知っている人も少なくないだろう。日宋貿易や日明貿易を。しかし、高校の授業ではなぜそれが儲かったのか分からないし、寺社が貿易をしたことの意味も分からない。
日元貿易について調べてみると例えばWikipediaには、日本から金・銀・銅や水銀、硫黄、その他刀や扇、螺鈿・蒔絵製品などを持っていき、銅銭や陶磁器、書籍や書画、お茶などを持ち帰ってきたとある。日本から鉱物や工芸品を持って行って売り、向こうのお金と唐物を持って帰ってきた訳だ。
しかしよくよく考えてみると、そのようような貿易がなぜそれほどの利益を出したのか疑問である。金や銀、工芸品がそれほど高く売れたのだろうか。それとも日明貿易でよく言われる、当時の中国の政権が大判振る舞いを毎度したのだろうか。
その疑問を解決してくれるのが『経済で読み解く日本史 室町・戦国時代』で、この本を読むと当時の大陸との貿易がどれほど儲かるものだったのが分かる。
大陸との貿易が儲かったのは、通貨を持ち込んだからだった。当時日本は通貨を作っておらず、渡来銭と呼ばれる中国大陸で使われていた銅銭を使っていた。銅銭は供給量が限られていて、また経年劣化で破損したり紛失したりして不足気味になるので、その価値は自然と上がる。
モノよりも輸入される銅銭の方が価値が高い状況で、日本国内のモノとカネとのバランスを取ろうとすると、銅銭の価値を7倍近くにしないといけなかったという。そのため通貨を日本に持ち込むことで、その価値が元よりも7倍近くも高くなった。
中国大陸でモノを売り銅銭を手に入れ、それを無事日本に持ち帰ることさえできれば、向こうで1万円の銅銭が海を渡るだけで7万円近くもの価値になったのだ。それゆえ貿易は儲かるものだった。
現代で言えば、銀行がお金を刷らずデフレになっている状況であり、その銀行が寺社であり、お金を刷る権利を持っているという訳である。大陸との貿易が儲かるものだと分かると同時に、寺社の貿易活動が当時の日本の経済に大きな影響力を持っていたことも分かる。
中国大陸との貿易は禅宗、特に臨済宗の僧がやっていたと言われることがあるが(臨済宗の僧は漢詩に長じていたので外交だけでなく貿易にもその能力を発揮したと)
、天台宗の延暦寺も貿易はやっていた。むしろ延暦寺が仕切り既得権益として守っていた。
鎌倉・室町幕府は延暦寺が大きな力を持ち続けることに危機感を持ち、禅宗を保護し貿易に新規参入させて延暦寺を牽制させた。それが鎌倉~室町時代に禅宗が台頭した理由である。禅宗は貿易で儲けたお金を、保護者である幕府に献上し、お互い利益を享受した。
寺社の建設・再建の莫大な費用を中国大陸との貿易で賄うことは、鎌倉時代から行われていた。室町時代もそれは行われ、その例として天龍寺が派遣した天龍寺船が知られている。これも高校日本史で習う。
南北朝の動乱で国土が荒廃し、幕府から建設費用をもらえない状況だったため、天龍寺(後醍醐天皇の菩提寺としてつくられた)は元に船を出し日元貿易を行った。その資金で天龍寺を建てた。
当時の天龍寺は現在よりも遥かに広く多くの伽藍があった。渡月橋から天龍寺にかけての嵐山一帯は、室町時代は天龍寺の境内で、最盛期には境内に150もの建物があったという。
それだけの資金を集められたのも、日元貿易が儲かるものだったからだ。この貿易に関わったのは夢窓疎石で、疎石は室町幕府の副将軍足利直義に何度も懇請し、5000貫文を幕府に納める条件で日元貿易の承認を得たという。当時の1貫文は現在に換算すると大体10万~20万円といわれており、5000貫文は5億~10億円になる。
日元貿易はそれだけのお金を幕府に納め、また経費を差し引いても利益が見込まれるものだった。天龍寺船は莫大な利益を上げて帰国し、博多商人を始め関わった人たちがしこたま儲けたという。
そんなことを知って天龍寺を訪れてみたが、境内を歩いた限りでは当時の隆盛は感じられなかった。しかし渡月橋からかつて天龍寺の境内だったであろう亀山公園や嵐山、愛宕山を見ると、当時の勢力の強さを感じることができた。
『経済で読み解く日本史 室町・戦国時代』には、五山を筆頭とする臨済宗は貿易だけでなく、税金の徴収や金貸し、荘園経営の能力も高かったという。その辺りのことも時間のある時に調べて、関連する場所に足を運びたい。
参考文献
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