【旅の拾いもの】日本一周4日目・5日目 和歌山県 熊野詣から知る日本の中世③

和歌山県

武家による熊野詣
承久の乱後は上皇の熊野御幸はほとんど行われなくなる。後嵯峨上皇の2回と亀山上皇の1回が行われたのみで、その後はなくなる。しかし熊野詣が全く行われなくなった訳ではなく、貴族の中には引き続き熊野に参詣する者もいた。王子の多くが破壊転倒し、上皇の宿泊所が荒廃しているといったことが、参詣していた貴族の日記に残されているが、鎌倉時代中期までは貴族の参詣はまだけっこう盛んだった。

そして鎌倉中期になると、一般の地方武士にも熊野信仰が急速に広まるようになる。北条政子が承久の乱前は熊野に二回参詣しているように、鎌倉武士の熊野への参詣は以前から行われていた。武士が朝廷よりも勢力を持ち、財力を増やしていくようになると、寺社への参詣も増えていくようになる。

地方武士の熊野詣
小山靖憲の『熊野古道』によると、地方の武士が確実に熊野詣をした記録は、弘安9年(1286年)陸奥国の地頭岡本資親(すけちか)が70日余りかけて参詣したものだ。京都経由で熊野に参詣するのが、当時の慣行だったようだ。ちなみに、現存する最古の地方武士による熊野詣の記録は、建長2年(1250年)に伊予国からあったと残されているが、これは代参の可能性があり実際に参詣したかは不明らしい。

そんな遠くから参詣したなんて本当なのだろうか、と疑わしいのだが、呉座勇一氏の『日本中世への招待』には、武士は地元以外にも拠点をもっていたことが書かれていて、それを読むと武士が長距離の移動をしたことも納得できる。というのも、鎌倉幕府の成立後は、ある程度の有力な武士は、地元と鎌倉と京都の三ヵ所に拠点をもっていたからだ。

幕府の御家人は群馬や栃木に住んでいても、幕府の用事でしょっちゅう鎌倉に行く必要があった。承久の乱後に朝廷を監視するために京に六波羅探題が設置されると、京都にも行かねばならなくなる。出張の度にいちいち宿を探すのは面倒であるため、ある程度有力な武士は鎌倉や京都に拠点を作るようになるのだ。そして、その拠点に父と兄と弟の三人にそれぞれ住んでもらい、各拠点を任せたというのだ(『日本中世への招待』)。そう考えると、地方から京都に出張した後に、武士が伊勢参りや熊野参りをしても不思議ではない。

熊野三山の荘園と海路
『熊野古道』では、東国から熊野に参詣する場合、熊野三山の荘園が東海地域にはかなりあったから、年貢輸送船に便乗して参詣することも次第に行われるようになったのではないか、と書かれている。このことから、熊野三山は本拠地である熊野の地以外にも荘園を持ち、そこと熊野を結ぶ航路を持っていたことが分かる。

熊野三山の荘園について調べてみたら、確かに東海地域は多い。『熊野学』というサイトで知ることができるが、遠江に7ヵ所、三河に3ヵ所、駿河に4ヵ所とあり、その3地域だけでも14ヵ所もある。一時期、熊野三山の荘園は全国で延べ100ヵ所以上があったようだ。
(『熊野学』研究資料.熊野信仰の展開.図と表で見る熊野信仰.熊野関係荘園分布図)

これは熊野三山が熊野水軍を押さえていたから可能だったのだろう。熊野の湊で各地にある熊野の荘園からの年貢を集め、熊野から各地の荘園に、熊野で穫れた良質な木や京都・大坂経由で仕入れた売れそうな物を運んでいたのだろう。熊野への参詣者はその航路を移動手段として使ったということになる。

熊野三山に限らず、延暦寺や興福寺、東大寺も全国各地に広大な荘園を持っていた。それらの力を持っていた寺社勢力は、その経済基盤を守るため武装していた訳だが、同時に荘園で穫れたものの移動ルートも確保していた。陸路だけでなく海路(琵琶湖の移動も含む)を確保し、モノの移動を活発に行い利益を出していてのだ。寺社勢力は物流にも大きな影響力を持ち、巡礼や布教、百姓(農民とは限らない)の移住といった人の移動にも影響力があったのだ。

室町期のことだが、江戸湾有数の湊だった品川では、各宗派が関東の布教の拠点とするために寺社を造った。日本一周の旅をしている時にも感じたが、港町には寺院が多い。今後調べたいことだが、中世の宗教は物流と深く関りがあり、これは非常に興味深い。日本の海運は江戸時代に発達したと思っていたが、調べてみると鎌倉時代に既にその土台はできている。

道路や海路の歴史を調べてみると、豪族と寺社とのいざこざが頻繁にあり、利権に絡む寺社の存在があったことが分かる。もっと調べてみたいが、一向に記事が進まないので、今後の楽しみにしようと思う(実は本を数冊読んでみたが、専門的な内容の本しか探せず、難解で放り出してしまった)。道路は古代の律令体制の頃に大掛かりに整備されたらしいし、海路は舒明2年(630年)に初めての遣唐使があったことから分かるように、瀬戸内海では航路があった。7世紀まで遡ることになるが、道路や海路について調べてみるのも面白そうだ。

武士の熊野詣の特徴
さて、話を武士の熊野詣に戻して、貴族の熊野参詣が次第になくなり武士の参詣が増えると、形式だった様々な儀式は行われなくなっていく(『熊野古道』)。穢れを祓う垢離が行われなかったり、王子社で儀式が行われなくなっていくのだ。本来儀式を行う場所であるはずの王子社で酒が飲まれるようになり、更には道中でも酒が飲まれるようにもなったようだ。本来、道中の儀式を教えるべき先達でさえ、その儀式が分からなといったことがあり、院政の頃とは違ったものになっていることが分かる。

将軍家の女性による熊野詣
武士が熊野参詣をするようになると、武家の女性の参詣も増える。これは室町期に起きるのだが、将軍家の女性達が熊野詣をするようになる。将軍自身は熊野ではなく伊勢神宮に熱心に参詣するようになるのだが、将軍家の女性達は専ら熊野に参詣するようになる。大規模な参詣が行われることもあり、ある時は千人~二千人の従者を従え、二~三町の行列をなして熊野詣をしたらしい(『熊野古道』)。女性による熊野への参詣が公家から武家に移っていったことが分かる。

熊野詣の最盛期
そして、鎌倉中期から増えた武家の熊野詣は、室町時代に最盛期を迎える。室町期を最盛期としているのは、祈願状の数字から判断できる。祈願状とは、熊野の信徒(檀那)が記された書類で、御師の元に提出されるものである。檀那から御師に提出されることで、御師と武士との間に師檀関係が成立したことを証明するものだが、早い話、檀那売券である。

この売券から、檀那の構成(職業や人数)、地域を把握することができ、熊野詣をした人数を知ることができる。売券を見てみると、檀那の内訳は武士や有力地主がメインになっているが、地方武士と供にその配下の村人も登録されているものが少なくない。有力な武士が単独で参詣したのはではなく、武士が地方から配下の地域住民を引き連れて参詣したことが、そこから分かる。

この売券の数から判断すると、15世紀後半の室町時代末期が熊野詣の最盛期となる(『熊野古道』)。具体的には、1450年〜1500年だ。有力武士が各地から参詣しただけでなく、それに従う配下の住民も一緒になって参詣いているため、多くの参詣者がいたことが分かる。残念ながら地方武士の参詣は何人のグループで行われたのかは、分からない。売券の檀那の内訳は「一族」「一門」「一円」とされており、具体的な人数は不明である。

「はんぬき彦八」と個人名が記名されているものがあれば、「○○氏」と記載されているものもある。一門なら2~30人だったのだろうか、一円なら50人くらいだったのだろうか、気になるところではあるが、それについては分からなかった。ついでに、武士に従った村人は「地下一門」と書かれている(近藤祐介氏『熊野参詣の衰退とその背景』)。

檀那売券の数は『熊野古道』に書かれていたが、サイトにある近藤祐介氏の『熊野参詣の衰退とその背景』という論文でも売券をまとめた表を見ることができる。こちらでは年代と先達名と檀那について記載されている。

本やサイトでは檀那を記した文書をすべて見れる訳ではないので、あくまで個人的な憶測だが、熊野参詣のピークは応仁の乱が起こる1467年から30年~50年前の期間ではないかと思う。檀那の内訳が分かる文書はすべてが檀那売券ではなく、願文、請文、譲状、借銭状といったものもあるので、一部しか見ていないので何とも言えないが、15世紀後半がピークというは売券の取引が盛んだったことを意味しているように思える。社会情勢が悪くなり急いで売券を売る御師が増え、その数が多くなるのが15世紀後半なのではないかと思う。

1430年~1467年くらいまでの時期は、小氷河期といわれる寒冷期だった(上念司氏『経済で読み解く織田信長』)。長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉が起こり、その6年後には応仁の乱が起こる。応仁の乱は10年も長引き京都は荒廃し、地方でも戦乱が起こる。政治も経済も失速する。そんな頃に熊野詣が頻繁に行われていたとは考えにくく、檀那売券をさっさと売りに出す者が増え、安く買って高く売る者が現れ、株のように檀那売券の売買が行われたのではないか。

実際は1450年前後の期間に頻繁に武士による熊野詣が行われたのではないかと思う。この頃は社会が安定していた訳ではなく、1420年~1421年には応永の大飢饉が起きている。また、義満の息子の足利義持が明との貿易を辞めたことにより(1411年)、当時自国の貨幣が流通していなかった日本は大陸の銅銭が入ってこなくなり、デフレになり経済が失速していく(上念司氏の『経済で読み解く織田信長』)。

そうした暗い時代だったため、武士の中で現世利益と来世の極楽浄土を願う熊野詣の人気が高まったのかもしれない。末法思想の広まりによって貴族の熊野信仰が高まったように、不安定な社会情勢が武士の熊野信仰を集めたのかもしれない。あくまで憶測に過ぎないが。

庶民による熊野詣③
以上みてきたように、最盛期を迎えた熊野詣の主役は武家だった。武士を筆頭に、有力地主や武士に従っている村人、そして武家の女性が熊野詣をしたのである。現在では「庶民」は「一般人」というイメージが強いが、そうしたものではなく、公家に対しての「その他大勢」にあたる意味での「庶民」が熊野詣をしたということになる。商人や農民が単独で熊野詣をした訳ではないのだ。

中世は商人や農民が安易に参詣できるような時代ではない。笹本正治『日本の中世3 異郷を結ぶ商人と職人』には行商が山賊に襲われ殺され、商品も盗られたことが書かれている。商いをする縄張りというのか、商圏というのか、その範囲を超えて行商するとなると、襲われる危険が当然あった。個人的な移動もそうだが、異国の地を歩いて行商をするとなると、弓を持った道案内(武装していて野武士のような様相)を護衛として雇う必要があった。辻(通り)では人さらい、追い剝ぎがあり、とても「一般庶民」が参詣できるような時代ではない。

ちなみに、『日本の中世3 異郷を結ぶ商人と職人』では、山伏が商人から金品を奪うことが書かれている。山道を歩く商人に、通行料をよこせと金銭や売物を要求するのだ。神のいる神聖な所を通るのだから、お礼をしていけという論理だそうだ。宗教に携わる者でさえ、よほど現代の宗教家とは言えない、そうしたことをしていた訳で、行商が危険だったことが分かる。

関所
熊野詣が最盛期になる15世紀、武士は地方から安全が確保された道を使って参拝しに来た訳だが、安全とはいえ避けて通れなかったものがある。関所だ。危険な道を避け、安全が確保された道を歩くとなると、うんざりするほど関所を通過しないといけない。

関所はそもそも敵の侵入を防ぐという、軍事目的のために設けられた。古代の関所は、監視し治安を維持する機能があった。しかし、中世になると一転し関所は通行税(関銭)を取ることを目的とした、経済的機能を負うようになる(大島延次郎『関所―その歴史と実体』)。中世の寺社は関所からの収入を、以前よりも増やしていくようになるのだ。

寺社が関所を設けて利益を得るようになると、それをみた地方の豪族は自分らもお金を稼ごうと参加するようなる。関所は寺社と豪族との争奪の対象となる。寺社は寺や神社を造ることを名目とし、豪族は戦乱で討ち死にした人々の霊を慰める寺院の建立費だ、神社の修繕費だといって、通行料を取るようになる。中世は実力主義の時代だから、力のある方が関所を抑えた。

しかし、これが室町時代になると更に悪くなる。関所が乱立するのだ。守護が公卿や寺社の関所を横領し金を稼ぐようになると、経済基盤を削がれた寺社は自分の領地で関所を更に設けて、失われた損失を埋めようとする。信心深い信徒や巡礼者から、お金を取るようになるのだ。先に少し触れたように、足利義満の死後、経済が失速したこととも関係しているのだろう。

荘園を武士に横領された寺社や貴族は、その代替財源を弱い旅行者に転嫁する。とくに信仰のための道者は喜んで寺社へ関銭を収めた(『熊野詣』)。伊勢では桑名・日永間の18kmの参宮街道に60の関所をおいて一文(約80円)ずつ関銭を取ったが、伊勢国には120の関所があり関銭をむさぼった(『関所―その歴史と実体』)。酷いものだ。歩いて約3時間半で歩ける18kmの参道に5千円近い通行料を払ったのだ。ついでに、国産貨幣の流通していなかった中世の貨幣の単位換算は難しく、一文約80円というのはあくまで参考程度にしていただければと思う。時代によって一文の値段が変わるが、ちょっとサイトを見ただけでも一文45円~200円という幅がある。80円~100円くらいとするサイトが多かった気がしたため、80円としている。

関所と山伏(聖)
そんな、通る度にお金を取られた関所であるが、山伏は関所でお金を払うのを免除されていた。山伏は大きな枠で「聖」の一部にあたるのだが、聖と呼ばれる寺社に属する僧は、フリーパスで関所を通過できた。これが、聖が各地で布教を行えた理由でもある。また、山伏は関所を難なく通過できたため、密使としての機能もあった。同時に、密使が山伏に変装して活動することもあった。

鎌倉時代になると、聖が隠密としての役割を担ったことも考えられている(もっと前の時代からそうしたことはあったと思うが)。幕府から土地をもらい活動拠点をもらう代わりに、各地を歩いて反乱の種がないか調べるのだ。当然、全ての寺社がそうだった訳ではないが、中には幕府と利害関係を一致させながら経営した寺社もあった。そうでもしないと、新しく寺院を建てることは簡単なことではない。

鎌倉時代になると土地は守護・地頭のものになっていて、誰のものでもない土地はない。勢力を持っている者の土地に寺院を造るのは容易なことではなく、土地を借りるにせよ新たに寺を建てるにせよ、領主の許可が当然必要になる。一遍をはじめ時宗の宗主は、神仏習合をうまく使い神道が強い信仰地でもうまく布教し、信仰を広めたようだ。地元の信仰を壊さないよう、豪族の先祖供養を蔑ろにしないように、布教したらしい(大橋俊雄『一遍聖』)。

とはいえ、そう簡単に新しい宗派がその土地に根付くのは簡単ではないだろう。新しい宗派が入る前に、既にその地との祖先を供養する別の宗派があるからだ。豪族や幕府に取り入りその意向に従いながら布教するという前提があったから、寺院を建てたり土地をもらうことができたとも、当然考えられる。

聖の一部は、関所をフリーパスで通過できるという特権を使い、全国を遊行し、幕府に敵対する勢力の動向を調べそれを報告する役割を担っていたのだ。特に承久の乱後は北条家に対する朝廷の動向は幕府にとっては気になるところで、鎌倉幕府が隠密としての機能を寺社に課したことも容易にうなずける。

言い換えれば、それぞれの時代の政権・権力が寺社を抑え、国から土地を提供する代わりに、寺社からの諸国の情報を要求したのだろう。全ての寺社がそうでないし、一遍のように活動拠点を持たない集団もあったが、各地の動向を監視し報告する機能を負うことで成り立っていた寺社があったことも、当然考えられる。ある意味、寺社統制が幕府によって行われていたともいえるのだろう。時宗4代目の呑海が興した清浄光寺には、こうした幕府との関係があったと考えられている(『一遍聖』)。

御師
当時の社会を知ろうと思うと、ついつい寄り道してしまい、本文がなかなか進まないが、次は御師や先達についてみてみようと思う。

貴族から村人に至るまで、様々な人が熊野詣をする際には、御師や先達と関わることになる。前回の伊勢参りの時に御師について書いたが、熊野の御師は伊勢の御師とは違う面があり、比較してみるとその違いがみえてくる。

熊野三山の御師は、主に宿泊のための施設を提供するのが役割だった。三山に属する社僧で祈祷の師であり、本来は熊野に参詣する参拝者と神仏を仲介する役割であったが、参拝者が増えることで次第に仕事内容が宿坊経営になっていく。初見は天仁2年(1109年)に藤原の宗忠が参詣した際、その房に宿泊した「新宮の師」とされる(『熊野古道』)。

貴族の参詣が相次ぎ、次第に武士や庶民が多数参詣するようになると、御師は多大な収入を得る様になる。そして参拝者を信徒として囲い、檀那(だんな)と呼び管理した。多くの檀那(信徒)を獲得すればそれだけ経済的に潤う訳で、次第に檀那に対する縄張りが発生し、それが権利として売買・譲渡されるようになる。

伊勢の御師(他の御師と区別するため「おんし」と呼ばれる)と比べると、熊野のそれは宿坊から出ない点が分かりやすい違いとなる。伊勢の御師は、檀那の元に行き伊勢参りを勧め、新たな檀那を増やすために移動した。新たな信者獲得のために遠くに行くこともあった。精力的な営業活動を行う存在であり、また現代の旅行会社も顔負けの旅のコーディネーターのような存在だった訳だが、熊野の御師は宿坊経営者のような存在である。では、営業を担うのは誰なのかというと、先達(せんだつ)と呼ばれる山伏が行っていた。

先達
先達は、伊勢の御師の先駆けとなる、営業担当である。伊勢御師は熊野の先達を真似たものともいわれている。しかし当初は、参詣を勧めたり道案内をするだけでなく、巡礼の儀式を指導する存在であった。貴族の熊野詣では、参詣者は出発する前に自宅から出て、精進屋に入り数日間精進潔斎しなければならなかった。その間、先達は経供養の導師を務め、京中諸社への奉幣や解除(げじょ)祓いというお清めの指導をした。また、出発前に禁忌の解釈もしたのだが、これは喪服中のものが忌明け以前に熊野に行けるかどうかを判断するものである。

そして数日の精進潔斎が済むと、険しい紀伊路を歩き、その道中で様々な作法を指導する。路次(みちすがらのこと)での祓、水辺での垢離、王子社での奉幣など、身を清め神仏に祈りや高価なものを奉納する儀式での作法を教える。路次の祓はよく分かっていないが、垢離は冷水を浴びて体と心を清めることで、それをすることを垢離を掻(か)くという。奉幣については先の通り(「貴族の熊野詣」の項目で書いている通り)である。

そんな先達も、時代が変わり武家の熊野詣が増えると、御師と檀那の間に入り、信徒獲得に精を出すようになる。武士を相手に信徒を増やし、熊野に参詣するように勧め、信徒の名前を個別に連記し檀那帳を作成した。それを御師に提出することで、師檀関係が成立され、御師―先達―信徒(檀那)の系列ができることになる。前回承久の乱のところで書いたが、承久の乱によって荘園を鎌倉幕府に没収された熊野三山は、その経済基盤を埋めるために檀那の獲得に精を出したと考えられる。こうした背景があり、積極的に武士に近づくようになり、15世紀に熊野詣を最盛期にするまでに、活動していく。

つづく(次回は、熊野信仰を広めた聖と一遍の時宗について)

参考文献
小山靖憲『熊野古道』岩波新書(2000年)
呉座勇一『日本中世への招待』朝日新書(2020年)
上念司『経済で読み解く織田信長』KKベストセラーズ(2017年)
笹本正治『日本の中世3 異郷を結ぶ商人と職人』中央公論新社(2002年)
大島延次郎『関所―その歴史と実体』(1995)新人物往来社
大橋俊雄『一遍聖』講談社学術文庫(2001年)

参考資料
『熊野学』研究資料.熊野信仰の展開.図と表で見る熊野信仰.熊野関係荘園分布図
https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/index.html
近藤祐介『熊野参詣の衰退とその背景』
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/rihum/kondo-jinbun14.pdf

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