【鎌倉時代の小話】過密都市鎌倉

河内源氏ゆかりの地であった鎌倉は、源頼朝が本拠地として幕府を開いてから急激に人口が増えた。武家政権の主要な政治が鎌倉で行われるようになると、各地から御家人が住むようになり、また御家人のための裁判が行われるようになると、所領安堵や判決を求めて各地から武家の者が集まるようになった。

当時の訴訟は、当事者同士が出廷して問答するのを原則としたため、畿内・西国でも武家の者は鎌倉まで行き、訴訟が終わるまで滞在しなければならなかった。藤原為家の側室であり、女流歌人であった阿仏尼が、裁判のために鎌倉に赴き、その道中を記したものが『十六夜日記』であることは知られている。

幕府と御家人が集まれば、その主従関係を確認させる様々な儀式や祭礼が行われるのは世の常で、流鏑馬・相撲・田楽・童舞・舞楽が行われた。寺社では住人と寺院との関係を確認させるために法会が行われ、住人同士では共同関係を確認する祭りが行われ、祇園会や盂蘭盆会などが開催された。

人が集まれば経済も発展する。各地にある御家人の所領から送られてくる物資が集まり、商人が集まり、鎌倉は集積地であり経済の中心地となった。それにあわせて輸送が発達し、多くの舟が由比ヶ浜一帯に集まった。鎌倉海岸の東南にあたる和賀江には、長さ200m、幅40mほどの防波堤が築かれ、大船であっても停泊できる設備が整備された。

大石を積んで築かれたこの和賀江島は、現在では長年の荒波によって崩されてしまっているが、干潮の時には海中から当時の石積みが姿を現すらしい。現存する日本最古の築港遺跡として現在も知られているが、この大石は伊豆半島方面から運ばれたといわれている。

陸路では、東京湾の良港六浦湊(現在の金沢八景辺り)に繋がらる山肌が開削され、切通しをひらいて朝比奈切通りが造られた。六浦(むつら)湊に陸揚げされた物資はこの幹線道路を伝って鎌倉の地に入り、東海道や鎌倉街道だけでなく、房総を繋ぐ陸路も軍事的・経済的重要性から整備された。

都市の方は、鶴岡八幡宮と由比ヶ浜をつなぐ若宮大路を真っ直ぐな道にして大路・小路を定め、その間に辻々を造った。そしてこの若宮大路と、鶴岡八幡宮から和賀江に繋がる小町大路との間にも辻々を造り、繫華街となる場所を整備した。

これらの都市計画には、罪を犯した有力武士に罰として工事させたらしい。工事につきものだったのが溝の掘削で、鎌倉には溝が多かったが、これは中世の都市の特徴だった。

鎌倉の大路の真ん中には溝があり、飲料用や洗濯用、あるいは消化用に水が流され、その他にも住宅の周囲の雨落溝、土地境界の区画溝、道路側溝など、多くの溝が造られた。溝の多さから鎌倉は水に恵まれた土地だったのかと思いきや、良質な水の少ない土地だったらしい。

鎌倉が都市として発展すると、関所がおかれ関税と称して米や銭が取られるようになり、諸国からの年貢を納める倉庫群が立ち並び、材木が集まり、材木を商う業者の座ができた。鎌倉海岸の砂浜では今でも宋の青磁の破片が無数に発見されるようで、鎌倉が宋との交易ルートだったことも考えられている。

鎌倉が都市として発展すれば、周辺の地域も活性化し、早川では藻を焼いて塩をつくり、厚木では鎌倉に送る建築用材の板が加工され、愛甲では儀式の時に使い捨てにされる土器がつくられ、相模原では薪が集められ、六浦には東国の年貢が集まり、塩がつくられ、多摩川周辺では瓦が焼かれ、鶴見川流域の鳥山周辺では大規模な新田開発が行われてと、周辺地域も鎌倉の経済圏に組み込まれていった。

頼朝が幕府をおいて間もなくして鎌倉は人口過密になるが、承久の乱で幕府が勝つとその権力はさらに強大なものとなり、首都鎌倉はその後も目覚ましく発展した。

参考文献
石井進『中世の村を歩く』朝日選書(2000年)
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
高橋慎一朗『中世鎌倉のまちづくりー災害・交通・境界』吉川弘文館(2019年)
大貫英明・神崎彰利・福島金治・西川武臣=編『県史14 神奈川県の歴史』山川出版社(2013年)

コメント

タイトルとURLをコピーしました