【小話】奈良時代 中級官人たちの奈良時代

平城京の人口は10万人というのが定説になっているが、実際のところは5~6万人らしい。10万人という数は移住可能な土地に隈なく人が住んでいたという前提のもと成り立ち、また一つの住居に家族で住んでいることを前提としているが、奈良時代を通して平城京にはそれなりに空き地があり、また平城京の住民の中でも多くの割合を占める下級官人は、その多くが単身赴任していたと考えられているため、実際の人口は5~6万人だとされている。

その中で、平城京で働く役人の数は、五位以上の貴族官人が約100人、六位以下の常勤職員である中級官人が650人余り、非常勤職員の下級官人が7,700人余りといわれている。本によっては中級官人も下級官人とする場合もある。役人の定員は法律によって定められ、その時々の事情によって増減したが、大体1万人近くだったようだ(平城京の人口については、『若い人に語る奈良時代の歴史』寺崎保広から、役人の数については、『平城宮に勤める人びと―役人の一日と出世―』桑田 訓也を参考している)。

中級官人と下級官人は平城京の南の地に土地を分け与えられ(貸与され)、それぞれの属する役所に出勤していた。位の高い者から順に宮や役所に近い所に土地が与えられるから、下級官人となると5km以上離れた所に家を持つようになり、出勤するのに1時間以上歩くこととなる。都の朝は早く、日勤なら早朝から昼まで働く。中級・下級官人が務める役所は70を超えるといわれている(『平城京を歩く』)。二官八省があり、それぞれの省に識・寮・司の役所があり、また八省に属さない役所もいくつかあったが、大宝律令による行政を進めるためには70を超える役所が必要だったのだ。

中級官人の年収は最下位の少初位下で約60万と少ないが(給与については後日「奈良時代の貴族の特権」で書く)、口分田をもらい、税金を免除されたため生活をすることはできる。給与は季禄といわれる、絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬が毎年2月と8月の上旬に現物で支給されるが、勤務していないともらえない。前の半年の間に120日以上出勤して初めてもらえる。平城京には官営の市があり、現物支給されたものを市場で他の物と交換する。

休日は6日毎に1日あったので、5日働いたら翌日は休みだった。田暇(でんか)という農繫休暇も認められていた。中級官人は60~70坪(約198㎡~231㎡)、本によっては150坪もの土地が貸与されたらしいが、相当に広さに思える。その土地に家を建て、井戸を設け、畑を作り、自分が食べるものを育てる。自分で畑仕事をするから、田暇がもらえたのだ。

個人的にはこの広さは大きすぎるように思え、発掘調査によると一つの敷地に建物が2、3棟あり1棟は納屋といわれているが、恐らくこれは家族で暮らしていた中級官人の場合だと思われる。単身赴任の中級官人や下級官人はその半分(1町の32分の1)の敷地だったのではないかと思う。また単身の者は畑仕事をせず田暇をもらわなかったのかもしれない。連日忙しく働いただろうし、昇進のために休みを返上して働いた者もいただろう。田暇をもらい畑仕事をしたのは、その妻や子供だったような気もする。

中級官人には休日はあるが夜勤もある。貴族が夜勤を免除されているのと比べると負担が大きいが、それでも休日のない非正規の下級官人よりは断然いい境遇になる。働く際に役所では貴族は椅子に座って働くが、下級官人以下は地べたに敷物をしいて働く。休みもなく連日働く。それに比べて中華には位階がある分、働いていれば昇進もあるから下級官人に比べると待遇はいい。

森郁夫・甲斐弓子『平城京を歩く』淡交社(2010年)
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)
参考サイト
『平城宮に勤める人びと―役人の一日と出世―』桑田 訓也

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