【小話】奈良時代 天子南面思想

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奈良時代の本を読んでいたら、「天子南面」というものを知った。中国の思想で、天子(皇帝)が臣下に対応する時は「南面す」、つまり南を向くというものである。皇帝は北を背にし、臣下から見て北に位置するが、これは皇帝が北の空に輝く北極星に喩えられ、不動の存在とみなされている。

不動の北極星は宇宙の中心と考えられて神格化されていた

この天子南面思想が唐の長安の都造りにも影響しており、皇帝のいる宮殿は北にあり臣下の者は北面して皇帝を仰ぐようになっている。北が高く南が低くなっていて、皇帝は臣下を見下ろし、臣下は皇帝を見上げる造りになっている。31年振りに派遣された遣唐使が長安の都を見て、天皇の住む宮が中央にある藤原京との違いを感じて、帰国後に平城京を造るようになったのも、この天子南面思想が関係している。

平城京や平安京が地図の右にある東を左京、左にある西を右京というのは、天皇が南を向いた時の右と左を表している。天皇が北を背にし南面している時の
左は地図上では東になり、太陽が昇る方向である。そのため左よりも右の方が優位となり、左大臣は右大臣よりも偉いといわれる所以となっている。

右よりも左が優位という左上位の考えは、西洋化が進む明治以前は日本でも馴染みのあるものだったようで、結婚式では新郎の右に新婦がいたらしい。雛人形も昔はお殿様の右にお姫様がいたらしい。落語や歌舞伎では演者にとっての左(観客から見て右)が上手となっている。

京都の雛人形は今でも男雛を向かって右に置く

西洋では反対に、ビジネス上の立ち位置も結婚式の並びも右上位となる。表彰台のメダルの位置もそうなっている。

本場中国も当然左上位かと思いきや、「左遷」という言葉があるように右上位の時代もあったらしい。天子南面思想は北辰思想や道教との関係があるようで、時代や宗派によって重要とする方角は異なるようだ。

天子南面を知った時、有名なお寺に南大門があるように、日本の神社やお寺の造りも同様にご神体や仏像を北面するようになっているのかと思いきや、そうとは限らないようだ。浄土宗では東向きにお寺が造られているし、宗派や祀る本尊によって大事にされる方角は異なっている。

ふと、北枕は縁起が悪いと子供の頃に注意されたことを思いだしたが、天子南面からするとむしろ縁起のいいものだろう。足を北に向ける方が失礼とされるはずである。釈迦が入滅した時に頭が北を向いていたことから縁起が悪いといわれるようになったらしいが、天子のいる北に足を向けて寝るのは失礼だという時代もあったのかもしれない。

方位方角といえば四神や鬼門なんてものもあるが、日本に限らず世界で人々は方角にこだわった。調べると調べるほどいろいろなことが出てきてまとまらないが、それぞれに宗教的な背景や文化・歴史的なものが感じられる。旅や散策をする時にも少し方角を意識して見ると面白いのかと思う。

文化繋がりでついでにもう一つ。現在では着物は右衽(うじん・右前)だが、これは奈良時代に決められたもので、それ以前の飛鳥時代までは左衽(左前)だったらしい。古墳時代の有名な壁画で知られている高松塚古墳の女性の絵を見てみると、現在では縁起が悪いとされている左衽になっている。

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