【小話】奈良時代 僧になるための資格と手続き

未分類

大宝律令ができた当初(701年)、僧尼になるのは難しかった。奈良時代の仏教は「鎮護国家」「国家仏教」という言葉から分かるように、国を守り安定させる役割を担うものだった。僧尼は国家の公務員のような官僧であり、天皇が病気になったら祈祷して平癒を願い、天災が起きたり疫病が蔓延したら祈祷して鎮め、または経典を研究し知識を身につけることを本業としていた。

国家が仏教の興隆を推進し国の行事に祈祷が行われる以上、僧尼は国家の事業を直接担う存在であり、官人と同等の身分と認識されていた。そのため、身分は国から保証され免税などの優遇措置が施され、同時に得度や生活規範については厳しく統制された。

税を取らず国費で僧尼の生活を保障するというのだから、当然求める学力も高くなる。国家仏教の下では国家を鎮護するための経典の学習が不可欠となり、よく知られているものに仁王経や金光明最勝王経、法華経というものがある。国王が経典を護持(読誦したり正法をもって施政)すれば国は豊かになり護られるという内容のもので、これら護国三部経は多くの僧尼に学ばれた。

また、他の経典の研究も僧尼の仕事の一つであった。仏教には多くの経典があり、新しいものやこれまで日本には伝わっていないものが遣唐使によって次々ともたらされてきた。仏教をあくまで思想支配の手段として利用したい政府としては、思想統制のためにもそれらの経典を判別する必要が出てくる。経典に書かれている教義体系を調べ、それが国家を鎮護するための経典なのかどうか、採用すべきかそれとも規制すべきか判別するため、僧尼は経典を研究する必要があった。

僧尼になるためにどれくらいの学力が必要だったのか、詳しくは分からないが、法華経もしくは金光明最勝王経を暗誦することは望ましいものとされていたらしい。734年(天平6年)に出された規定では、ろくな修行もせずに縁故や賄賂で僧尼になる者がいて勉強していないから、法華経一部か金光明最勝王経一部のどちらかを暗誦し、礼拝の作法に通じ3年以上身を修めた者でなければ度牒しないと改正されている。

一部というのは経典の一部ではなく経典の全部(一経の全部)を指し、法華経は8巻、金光明最勝王経は10巻あり、その全巻を指す。僧尼になるには経典の暗誦だけでなく、読経や誦呪(しょうじゅ)、唱礼(しょうらい)というものもあった。誦呪はサンスクリット語の原文を音読する仏教の呪文の一種で、「~ソワカ」というようなもので、唱礼は仏の名前を唱えて礼拝する儀礼の手順である。

僧尼になることを得度というが、その数は限られていた。持統10年(696年)から毎年一国十人の得度が大晦日に行われ、定期的に僧尼が出てくるようになる(年分度という)が、その門は狭く難しかった。年分度で僧尼になれない者は、臨時の得度の機会をうかがっていたらしい。皇室関係の有力者が病気になるとその回復を願って朝廷は得度を許可するが、これは死去に際しても臨時に行われることがあった。多い時には宮中や大寺で100人規模の得度が行われることもあり、難題な学問に苦労している志願者はそういう機会を待って僧尼になっていたらしい。

ついでに僧尼になるまでの流れを書いておくと、寺には信徒の子女が召使いのように雑務を行っていたが、僧尼令では正丁として税を納め始める17歳になると親元に返すよう規定されている。僧尼になりたいという者はそのまま修行をすることができ、男なら優婆塞(うばそく)、女なら優婆夷(うばい)といい、寺の中で修行に明け暮れ、僧尼の師から相当の修行を積んだと認められると、推薦され度牒(とちょう)が申請される。度牒とは優婆塞・優婆夷が僧・尼になるために出家して得度・受戒することを許すという太政官発行の通知書である。構文の証明書だから公験(くげん)ともいわれる。

寺は度牒を申請するためには治部省に申請書を提出し、治部省は民部省に5回分30年にわたる戸籍妙本を取り寄せて身分を確かめて太政官に回す。一方で僧尼の元締めである僧綱(そうごう)が試験をして合格したらその旨を太政官に通知する。こうして初めて太政官から度牒が発行される。

度牒が申請者に回って来ると、本人は得度受戒して、はじめて一人前の僧尼となることができる。本人は本籍地の戸籍・計帳から名前が削られ僧尼の名前が加えられ、租税がかからないようなる。

免税をはじめとした優遇措置が取られる分、本来、僧尼になるには厳しく狭き門を通る必要があり、その手続きもうるさいものだった。

参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)

コメント

タイトルとURLをコピーしました