山梨県の早川町には赤沢宿という昔の講中宿が残されている集落がある。講中宿というのは、講を組んで寺社に参詣する人たちの世話をする旅籠(今でいいう民宿)のことである。江戸時代中期から庶民が寺社参詣するようにはると、身延山に参詣する人が増え、赤沢の地は日蓮宗の参詣者によって繁盛した。
赤沢は身延山と七面山の間にある。身延山に参詣した講員は七面山にも参拝しに行くものが多かった。七面山は日蓮宗の霊場・霊山として信仰を集めていて、遠くから身延にやってきた信者はもう少し足を延ばして七面山にも参拝した。その途中で赤沢宿で一泊するものが多かったため、赤沢には宿場町ができ、講中宿ができるようになった。
「身延講」や「お山講」という講をつくり村人が身延山に参詣したが、一口に講といっても村の代表者が参詣する代参から、村人全員が参詣するものまで、その村によって異なっていた。七面山に登拝する講がどのようなものだったのかは分からないが、井伏鱒二の『夏日お山講』によると、昭和の戦前期は家族連れで参詣した人が多かったことが分かる。
井伏鱒二は七面山に登ったことを『夏日お山講』と『七面山所見』で書いていて、七面山で一泊した時のことを書いている。病気の知人のために、頼まれて七面山に行ってお守りをもらいに行ったことが『七面山のお札』に描かれている。
それらの作品を読んでみると、恐らく昭和初期と思われるが、身延線が開通してから沢山の人達が身延山や七面山に登拝していたことが分かる。東京駅で身延山に向かう講員が100人余りいて、たすきを掛けて前には「東京お山講」と書かれ後ろにはお題目が書かれていたとある。
井伏鱒二は下部温泉に行くつもりで東京駅の待合室で電車を待っていたら、ばつの悪いことにお金を借りていた知人に会い、お金を返したら旅費が減ってしまい、思案の末に東京お山講にお願いして混ぜてもらい安い旅費で旅をした。
身延山に参拝してからは下部温泉に泊まり、甲府の湯村温泉に泊まり東京に戻るが、「講中といっても全部みな家族づれの連中で、旅館では一家族づつそれぞれ一室に寝た。広い部屋には二家族または三家族がいっしょに寝た」と書いている。巡礼というよりは、参詣の後は温泉に浸かりゆっくりする村人たちの旅行だったことが分かる。
『七面山所見』では山に登っている時に「神戸日蓮講」「金澤日蓮講」「横須賀日蓮講」「横浜日蓮講」「東京日蓮講」と肩章をかけた参詣者がいて、そのほかにもいろいろの団体がいたことが書かれていて、全国から多くの参詣者が七面山に登っていることが書かれている。
寺に泊まりお風呂に入ると、四尺四方(120cm四方)の男女混浴の湯槽が二つ並び、湯水を節約する必要から申しわけばかりの湯が入れてある、どろどろに濁った水の中に男女が密接して浸かったとある。湯から上がると足の疲れを治すためといって流し場でみんな足の裏に食塩をこすりつけて揉んでいたと。
敷蒲団も掛蒲団も二丈(約6m)くらい横幅のある蒲団に皆々が入りこんで一斉に寝るが、七面山に参詣できたことが嬉しくて嬉しく仕方がないと夜通し泣き出す女性の親子のために寝付けなかったことも書かれている。住職の説経の時に涙ながらにお題目を唱える信者も少なかったようで、熱心な信者にとっては旅行ではなく巡礼だったようだ。
今でも山上の寺院に参詣する信者をもてなす坊には長蒲団がある所が残っているらしいが、七面山の長蒲団はそれなりに知られていたようで、自分もどこかで聞いたことがある。
徳富蘇峰の『人間界と自然界』には「七面山の名物は、長枕と大蒲団だ。長枕は木の丸太の底を平たくして、それを横(よこた)へ、その上に十人も二十人も頭を載(の)するもの」と書かれていて、木製の長枕も当時は有名だったらしい(『人間界と自然界』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。作者名は本名の徳富猪一郎となっている)。
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