中公文庫『日本の歴史1 神話から歴史へ』で持衰というものを知った。「じさい」と読む。安全に航海を行うことを役割とするシャーマンで、『魏志倭人伝』に書かれているのだが、これがまたインパクトがある。
古代、邪馬台国は中国にしばしば使節を送ったが、その際に持衰というシャーマンを同行させた。持衰は物忌(ものいみ)のタブーを固く守り喪服を着ており、肉を食べず女性を近づけず、髪には櫛を入れず垢も取らず、虱(しらみ)すら取ることがなかった。
無事に航海が終われば、使節団の者から大いに歓待され、生口と財物が贈られるが、もし航海中に病人が出たり暴風などに遭うことでもあれば、すぐに殺されてしまった。そしてこの種の風習は日本でもかなり後まで残っていたらしく、7世紀のはじめに推古朝が新羅に軍隊を送った際にも「神部(かんとも)として同行したらしい。
「日本でも」とあるから、元は中国大陸か東南アジア諸国から伝わった風習だったのだろう。しかし記録に残されているということは、当時の中国から見て特殊な風習だったとも考えられる。
女性との性交を避け、垢も虱も取らないのは航海の期間(準備期間も含む)だけだったのだろうか。それとも一生涯そうした生活をしていたのだろうか。生涯といっても、数回の航海でその命運は尽きてしまうのだろうが。
物忌は穢れを避けるための行為なのに、垢まみれ虱まみれの状態を維持して物忌にあたるのは、どのような思想がその根本にあったのだろうか。穢れた状態が、穢れを避けると考えられていたのだろうか。穢れた状態が神のご加護を得られるという考えだったのだろうか。それとも神への捧げものとしての印だったのだろうか。
無事航海が終われば生口(せいこう)が与えられるとあるが、生口は奴隷とは限らず技術者を指すこともあるらしい。だとすれば、持衰はどのような技術者を必要としたのだろうか。祭器を造る者か、それとも土木技術のある者か。
古来日本では、自然に人の手を入れることは神の神域を穢すとされ、畏怖されていたようだ(網野善彦『日本の歴史をよみなおす』を参照)。そうした思想と関連付けてみると、また別の疑問が出てくる。
あまりに昔のことで知る術はないのだが、いろいろと興味が湧いてくる。歴史好きの人の中には、古代史が好きな人もいるのだろうが、こうした分からないところや原始的なところが人を惹きつけるのだろう。
まだ読んでないが、持衰を扱った小説も出ている。機会を見つけて読んでみたいと思う。
参考までに、持衰について書かれた魏志倭人伝の書き下し文を。
その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず(くしけず)、蟣蝨(きしつ。シラミのこと)を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。若(も)し、行く者に吉善ならば、共にその生口、財物を顧(こ)す。若し、疾病が有り、暴害に遭うならば、便(すなわ)ち、これを殺さんと欲す。その持衰が謹まずと謂う。
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