画像は歌川広重の東海道五十三次 大津 走井茶屋(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
2021年は丑年なので、今回は牛の話を。竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解ける―環境・民族篇』に車石のことが書かれている。車石とは、江戸時代後期に京都に造られた牛車専用道路のことである。土の中に石を埋めて、その表面を削って溝をつくり、そこに車輪を通す仕組みになっている。
牛は臆病で暴れることが多く、また日本では牛馬に去勢を施す文化がなく、発情期に暴れることがあったため、通常の道の横に一段低い道を作りそこに石を敷いて牛を通した(注1)。日本で初となるこの線路は、1805年(文化2年)に京都の心学者・脇坂義堂が1万両を投じて大津から京都市内までの三里(約12km)に設置し、常夜燈が設置され夜間も人と牛車の行き来があったらしい。
1万両といっても、米か賃金か他の物かでその値段が変わるため一概に幾らかは分からないが、仮に1両5万円とすると5億円、10万円とすると50億円となる。これだけの大金を使ってどれほどの効果があったのかは分からないが、現在でも各地に車石が残されているのをみると、多くの住民や商人がその恩恵を受けたのではないかと思われる。
滋賀県のJR大津駅前で当時の車石を目にすることができるが、大津駅から京阪京津線に沿って京都山科駅に向かう途中にも数ヵ所、車石や常夜燈が残されている(注2)。車石は東京でも見れるようで、品川にある物流博物館に収蔵されている。
車石について考えてみると、なぜ牛車が普及しなかったのか気になる。京ではそれなりに普及していたらしいが、江戸では普及といえるほどではなかった。そもそも江戸時代は荷物を運搬する車両が未発達だった。海路や水路は整備され発達したが、陸上の車両は大八車などの人力の域を出ず、馬車は普及しなかった。
去勢をしたくないという日本人の性格だけが、牛車や馬車の普及を妨げたとは思えない。雨が降り湿度の高い気候ゆえに道路を整備できなかった、峠の山道が狭かったという地理的条件もあるだろうし、日本の橋はアーチ型で牛車だと橋を傷つけてしまうという技術的なものもあるだろう。
治安維持のために街道の車の使用を禁止したのも原因だろうし、火事が多かったから、あえて牛馬を使わないかったのかもしれない。人口を激減させるような飢饉が頻繁に起きたから時代だったから、牛馬が増えなかったという理由も考えられる。
銀座三越前駅の地下通路に江戸時代の町を描いた『熈代勝覧(きだいしょうらん)』のレプリカが展示されている。文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を描いたこの絵の中に、牛車が描かれている。
江戸で牛車は無縁のものではなかったし、京で車石が造られたことも知っていたはずである。それなのに江戸では牛車が、さらには馬車を含めた運搬車両が普及しなかjったのは、興味深い謎である。
参考文献
竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける 環境・民族篇』PHP文庫(2014年)
注1
注2:「車石 大津」で検索すると、大津駅から山科駅の間に車石が残されている場所が分かる
おまけ:石山寺縁起絵巻第1巻第3段に描かれている牛車
石山寺縁起絵巻第1巻は鎌倉時代に描かれたものとされている。当時から貴族が乗る牛車だけでなく、物資の運搬に使う牛車が使われていたのに、なぜ発達しなかったのだろうか。室町時代・安土桃山時代にも築城の際には牛が用いられたらしい。
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