山伏
もう少し先達を掘り下げて、山伏についてみてみることにする。先ほどは関所を無料で通過できる山伏やそれをいいことに隠密活動をする山伏がいたことや、山道で関銭を要求する山伏について書いた。今度は檀那を獲得する山伏について書いてみたいと思う。山伏はなぜ檀那を獲得することができたのだろうか。
熊野の山伏は「先達」として、諸国を歩き新規の檀那を獲得し、また檀那を御師の元に連れて行くための、山中の道案内をした。しかし、山伏とは本来、山の中で厳しい修行を行う行者(聖)のことである。日本古来の山岳信仰と仏教とが合わさった、神仏習合による日本独自の宗教である修験道の行者である。
「道中での苦行」でふれたが、逃れられない現世と来世の苦しみを避けるために、修験道には苦行という滅罪法がある。山中に籠って苦しい修行を行うことで、罪を滅し人間以上の力=験力を身につけるというものだ。これは、次のような論理からくる考えだ。
人間は多くの罪業により現世と来世の地獄の苦しみからは逃れられない。過去や現在の自分の罪だけでなく、自分に責任のない前世の罪、あるいは先祖の罪業も人間にはある。だから現世の病患や不幸、来世の地獄の苦しみは逃れがたい。しかし、山林での辛く苦しい修行を行い、肉体的な苦痛を課すことで、罪業を贖(あがな)い、消滅させることができる。そして罪が消えたのならば、験力が身につき人間以上の存在になる(五来重『熊野詣』)。
厳しい修行の内容は、暑さや寒さ、空腹に耐え、険しい山道を登り、悪路を越えるといったものが想像できる。修験道の世界には、十界修行という十段階の滅罪修行があるらしいが、今日でいう千日回峰行(俗にいう「荒業」)に近いものだろう。
荒業
その苦行がどれほど辛いものかは、荒行を想像すれば分かりやすいかと思う。荒行としてよく知られているのは、千日回峰行だろう。2015年にテレビで大々的に流れたのを記憶している。
メディアで取り上げられるのは、「堂入り」という9日間断食・断水・断眠・断臥の四無行を行い、お経を唱え続ける過酷な行だ。毎晩深夜2時に水を汲みにお堂を出て、仏にお供えするのだが、他のお坊さんに両脇を支えられて移動する場面は、印象的だと思う。水を汲みに出る以外は、お堂の中で10万回真言を唱えるという、過酷なものだ。
この堂入りは、千日回峰行の一部であり、千日回峰行はその名の通り千日(実際は975日)、7年間かけて行われる。1~3年目は年に100日、4~5年目は年に200日、約30Kmの行程を平均6時間で歩く。YouTubeで動画が見れるが、山道を速足で歩いているから、相当肉体的負担は大きい。途中で行を続けられなくなったら自害するために、短刀と埋葬料の10万円を携帯して行を続ける。
5年700日の行を達成すると、最も過酷な堂入りを行うことになる。不眠不休の苦行を9日行い、それが達成されると、6年目に1日60kmの行程を100日、7年目には200日行い、ようやく万行となる。しかし、中にはその後も100日間の五穀断ちと7日間の断食・断水を行う者もいる。
よく「1300年で2人のみ達成した」と書かれることがあるが、これは大峯山(奈良県)で行われる千日回峰行だ。天台宗の方が有名で達成者も51人(戦後14人目)と大峯よりも多い。大峯の方は百日回峰行のことがWikipediaに載っているが、読んでみるとその過酷さが分かる(千日回峰行については分からない)。
荒行には比叡山と大峯山で行われるものの他に、日蓮宗の百日荒行というものもある。自分も知らなかったのだが、世界三大荒行の一つに数えられていると言うほど、過酷なものだ。食事は朝夕の2回わずかなお粥を飲み干すだけ、睡眠時間は2時間、冬に1日7度の水行をして、あとはひたすら読経するというものだ。千葉県市川市にある法華経寺で行われる。
山伏の神格化
死と隣合わせの、ここまで極端な修行を行ったのは一部の行者に限られていただろうが、それなりの苦行を修める行者は沢山いただろう。山伏が苦行を行うのは、山中での厳しい行を修めることで庶民の信頼を得ることができたからだともいえる。
山に籠り、およそ凡人では想像できないような苦行を行うことは、普通の人にはできることではない。山は神のいる場所であり、死者のいる場所でもある。そうした霊場で長い期間、昼夜修行をすれば、不通ではつかない霊力が身に付くとも思えなくもない。古今を問わず、そうした者は庶民の信頼や崇拝を得るものである。庶民からすれば、普通では到底できない苦行を経た山伏は、超人的な能力があると思えるものだろう。
山伏には神力があると心底思い込めば、山伏から祈祷されて実際に病が治ることもあっただろう。奇跡はそうした思い込みから起こるというのか、心理的なものに依ることがある。一般的にはプラスのプラシーボ効果と言われているが。五来重は『日本の庶民仏教』でこんなことを書いている。
今でも苦行によって、その資格を得ている行者がいる。日蓮宗の身延山での苦行の満行者には多くの信者がつくことは、今も昔も変わらない。人間以上の能力を獲得したことが認められると、信者ととの行者とのあいだに絶対的信頼関係ができ、その信頼を通して呪術は効果を発揮するのだ。病気は去り、不安は取り除かれ、災いが去る。これが呪術のメカニズムで、信頼こそ奇跡を生む根源といえる(五来重『日本の庶民仏教』)。
苦行を修め験力を得た山伏は、治病や予言、雨乞いなどの奇跡ができるとされ、山籠もりを終えた後は民間の家々を訪れ、病を祈って治し、悩みを聞き、因果に基づく教訓じみた説法を説き(唱導という)、仏の道を勧めた。厳しい修行を終えた者には願力を得たという証明が与えられ、それが信徒の獲得に役に立ったのだ。
山伏が檀那を獲得できたのは、こうした背景があったからだ。皆が皆、苦行を修めた訳ではないだろう。言葉巧みに仏のご加護やご利益を説き、仏法を守らないと天罰が起こるぞと恐怖心を植え付けて信者を増やした者も多かっただろう。口の上手さだけで食べていける者も大勢いたことが想像できるが、そうできたのも、山伏(広い範囲で聖)が庶民に受け入れられるこうした土台が以前からあったからだ。
代受苦
苦行を修めた山伏(聖)が庶民に歓迎されたもう一つの理由に、代受苦というものがある。苦行を修めた山伏に特殊能力があるような気がするのは、分からないでもないが、だからと言って尊敬に値するのかと聞かれれば、それだけでは首を傾げてしまうのではないか。古今を問わず荒行を満行した僧に、庶民の尊敬の念が集まるのは、その僧の信仰心や精神力だけではないのではないかと思う。
満行者に信頼や崇拝が集まるのは、庶民の滅罪を聖が代わりに行ってくれるという、代受苦という論理があるからだ。「苦行」で少しふれたが、天災や病気などの不幸の原因は、自身の犯した罪だけでなく前世の罪、あるいは死者の祟りだと考えらていた。その罪を消す=滅罪するには、功徳を重ねる作善(後述する)と苦行があった。
熊野では苦行を勧めて、険しい山中を歩いて参詣することを勧めていたが、全ての者が巡礼できる訳ではない。だから代わりに聖自身が苦行を行い庶民の罪を消しますよという、代受苦という考えがあった。庶民の罪滅ぼしは代理でもいいというのが、庶民の滅罪の論理であり、ここに代受苦者としての聖の遊行と苦行の意味があった(五来重『仏教と民俗―仏教民俗学入門』)。
山伏(聖)はそういう庶民にとっては有難い存在であったため、自分を救ってくれる者として神聖視されるとともに、庶民からの支援を受けることができたのだ。遊行先で食べ物をもらい寝床を提供されお金をもらうことができたのだ。
俗としての聖
山での修行を終えた山伏(聖)は、里に降りて庶民の元に行くのだが、これは生活をするためである。もっとはっきり言ってしまうと、お金のためである。
お金のために、熊野詣をする檀那を増やしたり祈祷や説経をしたのだ。熊野も当時の寺社と組織的なものは変わらず、高僧がいれば雑用をする下級僧侶がいた。寺社には学侶・行人・聖の三つの身分があるが(伊藤正敏氏『寺社勢力の中世』)、山伏は聖に属する。
聖とは、後述するが寺に定住せず全国を遊行(ゆぎょう)する身分の僧だ。寺から給料が出る訳でもなく、自分で生活の糧を得ねばならない。寺社の信仰と権威を笠に寄付を集めたり、施しを得て生活している身分である。熊野の山伏であれば、先達となり信徒である檀那を獲得し、御師の元に連れていく契約的な師檀関係を結ぶことで生活していた。肉も食べれば、妻帯もする。半僧半俗の存在である。
白河上皇の第一回目の熊野御幸で先達を務めたのは、後に三山検校となる園城寺の増誉である。園城寺といえば最澄の弟子円珍が再興した天台寺門宗の総本山である(最澄の死後、天台宗は弟子の円仁と円珍とが対立し、円珍が比叡山を下りて園城寺で活動することとなる)。増誉の父は大納言の藤原経輔(つねすけ)で、高僧の中でも高僧にあたる人物である。そういった高僧が熊野御幸では先達を務めたし、貴族の参詣ではそれなりの高僧が先達を務めた。
しかし当時から庶民への勧進は行われており、寺社の中では低い身分に当たる多くの先達(山伏)が活動していた。講を作り檀那を獲得できるようになるのは後のことで、それ以前は苦行によって得た験力で経済活動をしていた。とはいえ、全てが全て、十界修行を修めた行者でななかっただろう。上手いことを言って庶民の援助を得た者や、藪医者や似非(えせ)祈禱師のような者もいたのだろう。
そもそも山伏はどのような者がなったのか、定かではない。疫病や飢饉で逃れてきた者や重い税から逃れてきた者、権力闘争に敗れた者や家督相続に敗れた者、戦争に負けた者や戦乱に遭った者など、そういった境遇の者が山伏や聖になったとされている。ということは、中世の寺社には、それらの没落者とも言える人々を受け入れる機能があったということだ。これは、「無縁所」や「アジール(避難所)」としての側面があったことを意味しており、このことは多くの本にも書かれている(網野善彦『無縁・公界・学』や伊藤正敏氏『寺社勢力の中世』など)。
以上、熊野の先達である山伏についてみてみたが、山伏といってもいろいろなタイプがいた。出自はそれぞれだし、修行をしている者がいればそうでない者もいる。一括りににはできないが、お金のために熊野詣を勧め、熊野信仰を広めたのは確かだ。上皇の熊野御幸によって、熊野信仰が各地に知られるようになると、山伏も多様化し檀那獲得に精を出すようになる。これも一つの熊野の歴史と言えるだろう。
もう一つの熊野詣 時宗と社会的弱者
いろいろと寄り道をしながら、熊野詣が最盛期を迎える15世紀までの熊野の歴史をみてきた。承久の乱後に武士の参詣が増え、1450年~1500年をピークに熊野詣は盛んになるのだが、その時期にもう一つ、武士とはまた別の熊野詣があった。一遍が広めた時宗による熊野詣である。
熊野三山について調べてみると、必ずといっていいほど一遍の名前が出てくる。次は一遍と、彼が広めた時宗についてみてみたいと思う。ただ、時宗の信者による熊野詣がいつ頃行われたのかは、正確な時期が分からない。ハンセン病患者がが時宗の教えに共感して熊野の地に集まったのは、1325年以降だろうとしか、具体的な時期は分からない。
補足として、ハンセン病患者とは、らい病を患った者のことだが、差別を受けてきた歴史がある。「らい病」という言葉には、忌まわしい過去の偏見が表れており、その偏見をなくすために、「ハンセン病患者」と書くのが一般的になっている。そのため、ハンセン病患者と記すことにする。
一遍
一遍といえば時宗の開祖、踊り念仏をした人、として知られているかと思う。歴史の教科書にも出てくる僧だ。熊野三山について調べていると必ず名前が出てくるのだが、その活動期間をみてみると、庶民の熊野詣が最盛期を迎えた時期とはずれている。
しかも熊野の地には一度来たきりで、その後は他国を行脚しているし、踊り念仏ができたのも一遍の熊野詣の後のことである。一遍と熊野との深い繋がりはあれど、一遍が長い間、熊野に滞在して布教をした訳ではないし、存命中に熊野詣が盛んになった訳でもない。一遍と熊野はどんな関係があるのだろうか。
一遍(1239~1289)が活躍したのは、承久の乱(1221年)と鎌倉幕府が滅亡する元弘3年(1333年)の間の鎌倉中期の頃になる。熊野詣の流れでいえば、上皇の熊野御幸が減り武士の参詣が増え始め、庶民の参詣が増える前になる。
この頃は元寇(文永の役・弘安の役)が起きた時代でもある。そして、鎌倉新仏教が興った時代でもある。承久の乱前には浄土宗の法然や臨済宗の栄西が活躍し、承久の乱の時には浄土真宗の親鸞や曹洞宗の道元が活躍し、乱後は日蓮宗の日蓮や時宗の一遍が活躍するといった、そんな時代になる。
熊野の歴史をみた時に一遍が必ず登場するのは、一遍が熊野で信託を得たからだ。そして以後、時宗が熊野の勧進を独占するからである。それを表すこんな話がある。
一遍が南無阿弥陀仏と書かれた札を配りながら熊野の山地を歩いていると、向かいから一人の僧が歩いてきた。その僧に札を渡そうとしたところ、僧は自分は念仏と唱える気にはなれないから要らないと拒否された。これは一遍にとってショックだったのだが、この場に居合わせた他の者の手前なんとか受け取ってくれと、なかば強引に札を渡すことにした。その後、本宮に着いてから、自分の行動はあれでよかったのか、自分のしていることは正しいことなのか、と夜通し瞑想すると、熊野権現が現れる。そして、庶民が往生できるかどうかは阿弥陀如来の本願によるものである。信じる信じないは別にして、念仏札を配り念仏を唱えることを勧めればいいのだ、と一遍に啓示を授けたという話だ。
信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず
熊野権現が一遍の前に現れ、啓示を与えた時に、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」と言ったとされる。この体験を機に、一遍は信不信を問わず札を配り念仏を唱えることを教えるスタンスで布教するようになる。そして同時に、社会的弱者である物乞いも差別することなく阿弥陀如来の加護を求めなさいと教えるようになる。これは一遍が分け隔てなく布教する契機になったことを表すのと同時に、熊野三山は分け隔てなく参詣者を迎え入れる場所だということを表している。
前回書いたが、藤原宗忠が書いた『中右記』には天仁2年(1109年)の時点で身分の高くない女性が参詣していることが記されている。また、盲人が参詣しようとしていることも書かれている。「不浄と嫌わず」とは女性に対するものだけでなく、らい病などの社会から蔑視されていた病や身体的な障害を負った者、そして「黒不浄」と呼ばれる死に対して、熊野は浄不浄を問わず受け入れていたことを表している(小山靖憲『熊野古道』)。
死に関しては、熊野詣の途中で力尽きて死んだ場合は往生できるとされており、山中で人が死ぬことを嫌わない土地であった。修験では霊場で死ぬことは神聖な場を穢すとし、霊場での死を嫌う宗派があるが、熊野はそうではない。そうした信仰があったから、ハンセン病患者や盲人、物乞いが他社からの喜捨だけを頼りに、本宮目指して熊野の山中を歩いたのだ。
「浄」を穢れの意味合いで書いたが、大橋俊雄の『一遍聖』では「浄」を心の状態と捉えている。浄不浄を嫌わずというのは、心が汚れていてもそうでなくても、札を配りなさいという意味で書かれているから、そういう意味もあるのかもしれない。
賦算(ふさん)
ちなみに聖が念仏札を配るのは、ただではない。念仏札を配ると同時に、お金をもらうのである。これを賦算というが、聖は念仏札を配ることで収入を得ていた。一遍は南無阿弥陀仏と書かれた札を配り遊行したが、高野聖も一遍を真似をして札を配って歩いた(五来重『高野聖』)。高野聖は札で得たお金の一部を高野山に収めたらしいが、一遍はどこにも属さなかったから、自身の生活費に充てたと思われる。
時宗
熊野本宮で信託を得た一遍はその後は各地を行脚し、熊野の地に戻ることはなかった。踊念仏ができたのはこの5年後となる、善光寺で布教していた頃とされる。熊野三山の歴史を調べている時、始めは一遍の布教団体が大人数を引き連れて熊野の地を歩いたのかと思っていたが、そうではなかった。一遍自身は教団を創る意思はなく、時宗ができたのは一遍が死んでから二代目が興したものである。
一遍の集団は十数人からせいぜい、二、三十人程度だったことが、大橋俊雄『一遍聖』から分かる。信者を全て従えて遊行することなんてできないから、多くの信者は在家衆として家に留っていた。一遍と随従して修行を共にする僧・尼の道時衆、在家の生活をしながら信仰に生きる俗時衆、そして、周辺にいて教えを聞き温かい手を差し伸べる結縁衆と、時宗の信者は分かれていたようだ。
勧進
時宗といえば、踊念仏が有名である。その名の通り、念仏を唱えながら踊るのだが、これが多くの民衆を集めた。神社やお寺が境内で催すのだが、これは一大イベントであった。五来重の『日本の庶民仏教』では、、相撲と同様に寺社が一種の興行として一遍一行を招いて踊り念仏を披露したことが書かれている。
その目的は、大勢の人を集めて法名を与えてお金をもらう、融通念仏会のためである。お金を儲けたのは勧進元の寺社であり、一遍一行は信徒からの喜捨を受けた程度だろうと思われる。中世ではこうしたイベントが寺社で行われることが多く、相撲も現在のように大日本相撲協会が開催するのではなく、寺社が開催していた。浅草寺や四天王寺が勧進元として特に有名だったようだ。
勧進とは、寺社の仏堂や仏像を建てるためにお金を集めることをいう。時宗の踊念仏や相撲のような興行的要素のある大掛かりなものがあり、また、一般的には寺や仏堂を建てたり、橋を架けたりするものがあった。聖はお金を出せば徳を積むことができると説き、庶民にお金を出させたのだ。勧進はお金だけでなく、労力を提供することもあり、庶民は協力して土木に従事することもあった。
勧進聖には行基や重源、空也が有名だが、常人ではできない大規模の勧進業を行ったから名が残っている。彼らが民衆の協力を得て大きな事業を成しえたのには、一種のカリスマ性があったからだろう。頭の良さや人格的なものも当然あっただろうが、共通するものに山林での修行を経験している点が挙げられる。空也の腕には、青年期に香を乗せて焼く苦行を行った時のものとされる、焼香の焼痕があったといわれている。
先述の通り、苦行を修めた聖は庶民の信頼を集め、神聖視される。命を危険に晒す苦行であればあるほど、民衆の支持を得られる。民衆の苦行への信頼が、大規模の勧進を遂行させることができたとも言え、勧進と苦行との関係が理解できる。
作善
聖は勧進すれば功徳を積むことができると強調するが、この功徳を重ねることを作善という。「苦行」のところで、現世や前世、祖先の罪を消すために苦行することを書いたが、滅罪法には苦行の他に作善もある。皆が皆、生活を捨てて山に籠る訳にはいかないし、そうなってしまったら聖の収入源が無くなってしまう。だから聖は、苦行の他に作善という滅罪法を庶民に用意したのだ(『日本の庶民仏教』)。
具体的に何をするのかというと、聖の勧進に応じて米銭や労力を提供するのだ。仏像を造り、堂塔を建て、経典を写し朗読し、僧侶に衣食を提供し、仏教法会を維持するために力に応じて金品を出したり、労働奉仕をする。そればかりか他人のために橋をかけ、道を造り、洞門を掘り、船を渡し旅人を宿し、乞食や貧窮者に布施をする。それらの作善も、祟りを免れるための罪滅ぼしになった(『日本の庶民仏教』)らしい。庶民のお金と労力で造った橋に通行料を課し、更にそこからお金を取るというのだから、これでは偽善ではないかと思ってしまうのだが、聖はそうしたことをしていた。
多数作善
そしてこの作善というものは、集団で行われる多数作善が最も功徳が高いとされた。庶民の一人一人は平凡で無力であるけれども、集団で行えばば強力になるという論理である。日本一周の旅をしていた時にも、千部経や万燈会というものを見聞きしたが、これは多数作善にあたる。一般的に次のようなものが今でも残されているようだ。千部経、万部経、千杯供養、万杯供養、千燈会、万燈会など。
これらの多数作善は、成就することころに意味があった。「長者の万燈、貧者の一燈」といわれるように、貧者が一燈ずつ万人で万燈を挙げる方が、金持ち一人で千燈万燈をあげるよりも功徳が大きいという意味である(『仏教と民俗―仏教民俗学入門』)。多数作善は成就するところに意味があったから、聖は千人になるように、万人になるように作善をする民衆を集める必要もあった。当然、作善をした者も他の作善を行う者を探す手伝いをさせられたのだろう。
多くの作善者を集めるためには、分かりやすく仏の教えを説く必要があったし、天罰を引き合いに出して怖がらせる必要もあった。演説能力が必要だったし、庶民を巻き込む空気も必要だった。そうして念仏が唱えられるようになり、念仏が歌になり、または踊りになりと、勧進が芸能に発展していくようになる。鈴や太鼓が鳴り、大勢の念仏や歌が聞こえると、次第にその空気に飲み込まれ、作善をせざるを得ない人も出てきたことが想像できる。
唱導
このように、聖は各地を遊行(勧進)しながら庶民からお金を得ていたのだが、この勧進の手段として用いられたものを唱導という。説法ともいう。経典の内容を説いたり神仏の功徳を説いたりすることで作善を勧めることである。遊行する聖は本来は、死者を弔い鎮魂する役割を担うものだった。そのための山中での修行があったし、在野に降りてきた時には死者の供養を願う人々に必要とされた。
しかし、平安末期になり寺社が大きくなり、それまでのように国家の保護を受けられなくなっていくと、寺社は勧進で寺院の建立や修繕をしなくてはいけなくなり、勧進聖が増えていく。山伏のように苦行を修めた者だけでなく、どこから来たのか分からない者が集まり、寺社の権威と教えを傘に庶民に教えを問い金銭をもらうようになる。権力争いに負けた者、家督相続に敗れた者、戦乱に巻き込まれた者、逃散した者、など競争に負けた者や社会から脱落した者が聖になることがあったようだ(『高野聖』)。
そうなると厳しい修行で得た験力で民衆に布教する聖だけではなく、言葉巧に信者を増やす聖も増えていく。経典の内容を説いたり神仏の功徳を説くという正統的な布教だけでなく、高僧の伝記を広め他の宗派よりも優れていることを説き、物語を創り美辞麗句を連ねて大衆を魅了するようにもなる。恋愛や死などのドラマチックな物語を大袈裟に、感情的に語る者が出て来て、神仏やその教えを説く聖を蔑ろにした者が天罰を受ける話を聞かせて恐怖を煽る者も出てくる。また、語り口に節(曲調)をつけて物語を唄い、聞く者を恍惚とさせるような詠唱も行われるようになる。
『一遍聖』では、一遍の集団に尼がいたのは、食べ物を作ったり衣服を縫うといった活動に必要な世話をするためだけでなく、尼僧の念仏の声が必要だったからだと書かれている。今井雅晴『一遍・放浪する時宗の祖』にそう書かれていると紹介されているのだが、尼僧が美しい声で念仏を唱え、踊り念仏をすることで、多くの庶民を魅了するの同時に、巫女のような役割、阿弥陀仏と人間の間に入り、両者をつなぐ役割を担ったのだと。
一遍は踊り念仏で布教したことで知られているが、そのルーツは一遍が師と仰いだ空也の念仏(平安時代中期)ともいわれている。始めは念仏の繰り返しで踊っる踊り念仏は、小唄で歌うようになり、盆踊りのようになる。その後は舞踊、演劇に繋がり、民間芸能を発展させることになる。
つづく(次回は、社会的弱者の熊野詣と熊野詣の衰退について)
参考文献
五来重『熊野詣―三山信仰と文化』講談社学術文庫(2004年)
五来重『日本の庶民仏教』講談社学術文庫(2020)
五来重『仏教と民俗―仏教民俗学入門』角川ソフィア文庫(2010)
伊藤正敏『寺社勢力の中世』ちくま新書(2018)
小山靖憲『熊野古道』岩波新書(2000年)
大橋俊雄『一遍聖』講談社学術文庫(2001年)
五来重『高野聖』角川ソフィア文庫(2011年)
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