概略
平安時代中期、名実ともに権力を極め平安貴族の頂点となった藤原道長が、どのようにして権力を握り、政治を主導していったのかを書いた本。扱う時代は村上天皇が崩御した967年(康保4年)から前九年の役が起き末法の世に入る1052年(永承7年)までの約100年間となる。
藤原氏最後の他氏排斥事件として有名な安和の変が969年(安和2年)起こると、朝廷に藤原氏に逆らえるほどの力を持つ貴族はいなくなる。すると今度は藤原氏内部での勢力争いが起こり、忠平の孫で道長の父にあたる兼家が詐術を用いて花山天皇を出家させ、一条天皇を即位させ自らが摂政となり権力を握る。そして露骨に自分の子を大納言・中納言に引き上げ、道長は23歳で中納言に引き立てられる。その後兄たちが次々と亡くなり自分が家を継ぐことになると、道長は自分にっとって邪魔になる者を排除し、最大の障害であった甥の尹周を左遷させることに成功し、31歳という壮年気鋭の状態で左大臣になる。
道長は娘を次々と天皇に嫁がせ外戚という地位を確固たるものにし、天皇の外戚であるが故に権力を維持し、また後后を抑えることによって外戚の地位を確保するという摂関政治体制の原則を完全な形で実行した。しかし、道長の後を継いだ頼道に男子に恵まれないと道長が創り上げた摂関家の威光は陰り、世は荒れていき、前九年の役が起こり末法の世へと入っていくことになる。
道長が全盛を誇った摂関政治は、賄賂が公然と行われ、中央は地方を軽んじたゆるんだものだった。摂関の権威は一見高いようであっても専制的な強圧的なものではなく、地方の国司や有力農民、寺社がごまかしおおせようとした。天下は次第にその権威を恐れなくなり暴力が増大し、末法の世に足を踏み入れることになる。
読んでよかった点
驚くほど読みやすかった。安和の変で藤原氏が他氏排斥をした後に今度は内部で排斥し合い、道長の父が優位な状況を勝ち取り、それを道長が受け継ぎさらに権力を極めっていく過程が分かりやすく描かれている。通常、権力争いを説明した政治史は登場人物を押さえるのに苦労するし、読んでいても退屈なことが多いが、この巻では分かりやすく説明していて感心してしまう。
藤原氏の権力争いだけでなく、刀伊の入寇や盗賊の跋扈、百姓による集団陳情や寺社の僧による乱暴など、平安時代中期に起きたこれらの事件がどのようなことを背景にしていたのか、そして以後どのような結果をもたらしていくのかも、分かりやすく説明している。浄土信仰や疫病についても理解しやすく、平安時代中期の社会の全体像を知ることができる。
政治一辺倒でなく貴族の思想や文化の説明が充実しているのも、飽きずに読める理由の一つである。平安時代の文化を知るためだけにこの本を買ってもいいと言えるくらい、中身が充実している。政治史はほどほどに、文化や思想をメインに読みたい人にもおすすめできる。源氏物語や枕草子といった文学、儀式や宴会、会議、貴族の出世や収入、衣食住のことなど、平安中期に日本の中心でどのようはことが行われていたのか知ることができる、平安時代の名著だと思う。
気になったことのメモ
本を読んで個人的に興味をもったことをいつものように幾つか書いておきたいと思う。すべては書ききれないので、後日「小話」でいくつか書きたいと思う。
外戚という立場
この巻では天皇の外戚であることがどのような立場であるのか、基本的なことから丁寧に解説してくれている。平安貴族の男は、結婚する時に男性が女性の家に入るもので、そのまま居座ることがあれば、他の女性の家に居座ることもあり、また自分の本邸で暮らすこともあり、渡り鳥のようなものだった。生まれた子供は男であればいずれ外に出ていくことが多く、本邸を継ぐ女の婿取りになる者は女の家の一族となり供に暮らすが、そうでない男は婿入りした女の家で10年から20年世話を受けていずれ独立するものであった。
貴族の女性は生涯家から出ることなく、実家に留まり自分の子供を、何なら婿をも金銭面で世話をするものだと考えられていて、婿から生活を保障してもらうことを恥としていた。経済的に自立し子供の養育・後見に関する権利と義務を持ち、それが貴族の中では当たり前の社会通念であった。その通念は天皇とて変わりはなく、それゆえ外祖父を主軸とする外戚の一族が大きな影響を持ち、政治に関わることができたのである。
興味深いのは、いくら外戚が強力な権力を持っていたとしても、専制を振るった訳ではないということである。摂政関白が一から十まで天皇に指図して天皇はロボットだったというのは間違いであり、摂政は天皇が幼少で判断力がないため指示を出すとしても、天皇の生母の発言力は強く摂政の指示を左右させる。また関白となると、関白が大小いちいち天皇と打ち合わせをして、天皇の判断を求めることが驚くほど多い。天皇もよきに計らえと投げやりではなく、関白の提案に対してそれぞれ自分の意見をしっかり伝え、関白に善処させている。そういったことも知ることができ、勉強になる。
儀式の意味
儀式について頁を割いて説明してくれるところもありがたい。歴史の本を読む限り、平安貴族は儀式と宴会ばかりしている。政治を投げ出して宴に現(うつつ)を抜かしているかのように誤解されがちだが、考えてみればそんなことで政権のトップに居座れる訳がない。儀式や宴会がどのようなものであり、それはどれくらい重要なものだったのか以前から疑問だったが、この巻はそうした疑問も解決してくれる。
平安時代は万事が儀式として扱われた時代であった。朝廷は秩序があればこそ成り立つものであり、その秩序を維持発展させるものが儀式であった。そのため、朝廷の威容と秩序を示す儀式は重んじられ、新しいものが取り入れられ増えていき、細かくなり洗練されていった。そのような、うるさすぎる儀式には必ず作法がつきまとい、複雑なもとなった。朝廷はあらゆることを儀式や先例という観点から考えていた。
行事には宴会も多かったが無礼講ではないし、座る席や酒の飲み方、盃の回し方もやかましい。作法を間違えると無能のレッテルを貼られるため疎かにできないし、嘲笑されるようなことにでもなれば仕事を任されなくなり発言力が落ち、自身の地位や経済力に影響を及ぼすことになる。儀式や行事の作法は貴族にとっては大事な仕事であり、平安貴族には心労が多く、決して優雅華美の生活を楽しみ遊宴の日々を過ごしていたのではないことが分かる。
怨霊
宮廷での儀式や行事の作法がうるさければ、私生活の作法もうるさい。常に吉凶を気にして、入浴の日も爪を切る日も暦の吉日に行う。大凶も同じように気にし、そんなこといちいち気にしていたら生活などできないから全て守った訳ではないらしいが、大凶の日には建物を建ててはいけないだの、外出してはいけないだの、この方角はよくないから遠回りしないといけないだのと、そんなことを気にしていた。
朝起きたら暦を見て吉凶を確認し、日時や方角の善し悪しをいちいち気にして生活していた訳だが、暦に加えて人によっては厄年や厄日がある。その日その日をどのように過ごすのか朝から真剣に考えていたと思うと、現代とは全く違った価値観を持っていたといえる。夜になり、ふと彗星が現れたり他の星の異変があれば騒ぎだして天文博士に占わせ、報告書を提出させる(彗星は凶の前兆として恐れられていた)。
平安貴族が何かにつけて吉日吉時を選び、神仏に祈願し呪文を唱え、祈祷に頼ったのはなぜなのか。著者はそのような迷信深さは、科学が進歩していなかったことももちろんあるが、同じ古代の中でも平安時代は特に迷信が盛んだったことを指摘し、当時の社会が身分や家柄によって運命が決まるもので、自力で運命を切り開いてゆく余地が少ないからだと述べている。停滞的な社会が貴族らをより迷信深くしたと。
大臣の仕事
平安時代は万事が儀式と捉われていたからといって、実務がなかった訳ではない。財政問題、外交、庄園に関わる裁判など、左右大臣をはじめとした公卿が対応し、必要に応じて法令を出してたりも当然している。会議を開き議題について話し合い、行事があれば担当者(上卿・じょうけいという)を決めて事に当たる。
一例として『小右記』の作者として知られている藤原実資が担当した仕事が紹介されているが、大臣の仕事がいかに大変なのか理解できる。かいつまんで書くと、天皇が神社に行幸することが決まり実資が上卿になると、実資はせわしなくその準備に追われる。
行幸の道順を視察し輿を担ぐ人や儀式に参加する人の手配をし、神社の修復や天皇御座所の新築の指図を出し、諸国に費用や資材を催促する。参加者が親族の喪に服すことがあれば神事には参加できないから代わりの者を調達し、また天皇の忌日だということで急遽行幸の日取りが変更し、その調整をしないといけない。
天皇が神社に土地を寄進することになれば、その土地の選定・境界線の設定を行う。そして行幸の日になると、滞りなく儀式が行われるか気が抜けないことはいうまでもない。しかし儀式が終わってからも寄進する土地を巡って問題が起こりなかなか解決しない。土地を削られる方は境界線を変えようとし、もらう方も別の土地がいいと言い出し、何だかんだ3年経っても解決しなかったことが書かれている。
上卿になる公卿が皆これほど厄介な仕事をした訳ではないが、儀式や行事の作法と同様にこうした準備・調整ができないと無能とされ仕事が回ってこなくなるから、それなりの責任を負って事に当たった訳で気が抜けなかったのだ。
浄土の教え
比叡山延暦寺で発達した浄土教は空也・慶滋保胤(よししげのやすたね)・源信によって急速に広められると、浄土図が描かれるようになる。阿弥陀如来は極楽という美の世界に住み、万人をそこに迎えることを願う慈悲深い優しい仏であり、温かさを備えた親しみやすい姿で描かれる。それまでの密教の諸仏は尊く力強く、同時に不可思議な神秘を称えた恐るべき姿で近寄りがたいものでもあったが、極楽浄土の世界は決して近寄りがたい世界ではなく、絵画・彫刻に表される阿弥陀如来は優しい顔、ふくよかな顔をしている。
こうした世界への憧れが貴族の中で広まった背景には末法思想がある。釈迦が入滅してから正法・像法の世を経ると末法の世に入るという悲観的な思想で、末法の始まりは1052年(永承7年)とされた。現世の栄華を極めた道長は後世の準備をし、豪華な法成寺を造り浄土教に救いを求めた。そしてそれは後の貴族に大きな影響を及ぼし、院政期に入るとますます浄土教は栄え、武士の間にも広まり、そして阿弥陀堂の建立が著しく盛んになり地方にも波及した。
本を読むことで密教と浄土教の芸術面での違いが分かるし、阿弥陀堂についての理解が深まり、絵画や彫刻を鑑賞する際の手引きになり、またお寺に行った時の役にも立つので、個人的には興味を覚えるものであった。
『大日本史料』編纂
もう一つ、個人的に興味を持ったのは日本史研究の基礎作業についてだ。著者は「平安時代中期の歴史を調べるにあたっては第一に日記類を根幹とし、第二に文書および歴史物語を枝葉とし、そして第三に今昔物語などの説話集や、文学作品を花として、形作ってゆくことが正道であろうと思われる」と大綱の作り方を述べているが、その大綱が実はまだできていないことが書かれている。
大綱を作り上げる事業が『大日本史料』編纂といわれる資料集の作成なのだが、これは東京大学史料編纂所の職員が六国史の後を継いで平安中期から江戸時代初期までの約800年間を12の編に分け、現存の厖大な各種史料を編年体に整理し、何年何月何日に日本でなにが起こったかということを、一つ一つ順を追ってきめてゆき、その根拠となる史料を掲載するというものである。
発足以来既に百年(『王朝の貴族』出版当時で)に近い空前の大編纂事業であり、その成果は明治30年代から着々と出版されていて、厚さ5百~千頁の『大日本史料』が出版当時で約250冊に達している。この仕事が完成すれば、まず一通りの骨組みは出来上がるのだが、その完成には今後少なくとも百年近くはかかるであろうと書かれている。著者が担当している平安中期はどうしてもまだ3、40年かかると。そういう次第で平安中期に関しては、まだ専門的な基礎作業もやっと半分近くまで辿り着いたに過ぎない状態であったことが知れた。
東京大学史料編纂所のホームページを見ると『大日本史料』の編纂の進歩状況を知ることができるが、大綱が完成するのにまだ時間がかかることが分かる。『大日本史料』が完成するまでは当面の間『史料総覧』という、事件の概要を示す綱文と典拠史料名のみを抜き出したもの17冊が刊行されていて、それが研究に使われているらしい。少なくとも平安時代に関しては、まだこれから新しく分かることが出てくることが期待される。
以上、個人的には上のことに興味を持ったが、その他にも道長の性格や嫌がらせ、暴力的な貴族の振る舞い、宮廷の女性の大変さ、美人の条件、尼の説明、十二単の嘘、清少納言の性格など、平安貴族のことを詳しく知ることができ、読んでいて面白い巻だった。平安時代に興味のある人におすすめできる本である。
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