中学高校の日本史の授業で班田収授の法は6歳以上になると口分田がもらえると教わった。戸籍は6年ごとに作られるから、運のよい子なら6歳の時に戸籍を作る年と重なり口分田がもらえるが、運の悪い子は5歳の時に戸籍作成の年となり、その6年後の11歳になった時に口分田がもらえる。そういうものだとずっと思っていた。
しかし、『日本の歴史3 奈良の都』によると、口分田がもらえるのはどんなに早くても数え年で10歳の春からになるという。運の悪い子は16歳の春にならないともらえないのだが、その理由は、6年ごとに作られる戸籍に2回以上載って初めて支給対象となるからだ。また、戸籍を作った年にすぐに班田が支給される訳ではく、戸籍ができてから丸2年後にようやく班田が割り当てられるため、更に遅くなるからだという。
本によると、戸籍が作られ班田が支給されるまでに次のような流れがある。まず戸籍は11月上旬から翌年の5月末までに作られる。その後、その冬から翌年の春にかけて校田という全国の田の一斉調査が行われる。そして戸籍と校田の結果に基づいて班田が行われるのだが、これは造籍開始から丸2年後の11月から翌春2月となる。
一番運のよい子だと、造籍直前に生まれるパターンで数え年で1歳の時に1回目の戸籍に載る。2回目に戸籍に載るのは6年後だから7歳の時となる。8歳の年に校田が行われ、9歳の年に班田が決定されるが、実際に田んぼがもらえるのは翌2月だから10歳になる年の春となる。
一番運の悪い子だと、造籍直後に生まれるパターンとなる。造籍の年に生まれたものの、生まれた時には造籍が終わっているから籍に名前を入れるには6年待たねばならない。7歳になった時にようやく1回目の戸籍に載ることとなり、2回目は13歳の時になる。14歳の年に校田が行われ、15歳の年に班田が決まり、実際に田んぼがもらえるのは16歳になる年の春(2月)となる。
史料の捉えようによっては1年早まるらしいが、それでも口分田がもらえるのは9歳から15歳までとなる。これを知った時は驚いたが、班田収授の法にはこのような意外な面がある。ネットで調べてみると、戸籍に2回乗る必要はないと書かれているものもあり、もしかしたらそちらの方が正しいのかもしれない。参考にした『日本の歴史3 奈良の都』は出版されたのが40年前のものだし、当時は木簡の解読もされていない。
そうだとしても、戸籍が作られてから校田があり、その後に班田が支給される流れは合っているようで、造籍から3年待たないといけないことは確かなようだ。
そして、意外な面といえばもう一つ。男なら一人二段、女ならその三分の二といった基準には、耕地が乏しければ少なくてもよいという例外規定がついている。時代が経つにつれて班田する田はなくなり、奴婢には支給しないという規定も増え、受給者が制限されるようになる。
また、必ずしもその土地の田をもらえる訳ではないというのも、意外な一面である。できるだけその百姓の家の近くに田を支給せよという規定があるものの、志摩国の百姓に隣国の伊勢の田を支給したり、海のかなたの尾張国のものを支給したりしたりされたこともある。これは725年(神亀2年)の例だが、766年(天平神護2年)の越前国の百姓に敦賀の田が支給された記録も残されている。
こうした場合は毎日海を越えて耕しに行ったり現地に赴任する訳にもいかないから、遠地のその土地の百姓が田を耕し土地代を支払うといった賃租が行われた。地子は収穫の5分の1というのが相場だったらしい。
参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
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