【小話】奈良〜平安時代 律令制の下で有名無実化していく郡司

奈良時代を特徴づけるものの一つに、国司と郡司の地方行政制度がある。地方豪族である郡司は、中央から派遣された国司の下に入り、先祖代々受け継いできた土地を治めるようになるが、それまでの統治を残しつつ国司による新たな統治が始まるという、二重の支配体系が始まることになる。

7世紀前半の地方豪族は、国造・伴造・県稲置など、様々な形で大和政権に服属していたが、7世紀後半になると国司制度が成立し、中央から国司が派遣されその管轄下に入ることとなる。国造は国を治める地方官、伴造は天皇や朝廷に属する部を管理する豪族、県稲置(あがたいなぎ)は県と稲置のことで県は大和政権の直轄領を管理した者、稲置は国造の下で県を管理した者となる。

国造・伴造・県稲置が入り乱れる地域もあり、地方豪族と朝廷との関係は複雑だったが、7世紀半ばの大化改新から701年の大宝律令までの約半世紀の間に国司・郡司の制度は整えられていく。それまでは郡司が自ら都まで税を納めていたが、郡司が徴収した租税は国司のもとに集められ、国司の責任で中央政府に納められるようになる。これにより地方官人のあり方は大きく変わる。

律令制の開始により中央官人はもちろんのこと、地方行政官である郡司も文書作成業務が増え、膨大な文書の作成に追われるようになる。特に6年毎に作成される戸籍はかなりの大仕事となり、郡内の里長(郷長)を動員して過去6年間の出生・死亡などの人口の変化を一つ一つ確かめないといけない。書生に戸籍の下書きを作らせ、更に三通も清書させなければならず、極めて多忙だったとされている(『日本の歴史3 奈良の都』)。

そうした変化に伴い、郡司という地位は多忙な割にはうまみのない魅力的でないものとなっていく。郡司は終身制であり位階が上がろうとその位階に相当する官職に移ることがない。大領なら外従八位上、少領なら外従八位下と、最初任命された時にもらう官位が決まっているが、これがいくら上がろうが一生転任しないので栄転といううまみが最初からなく、また位階によって給与が支払われる訳でもない。識田がもらえるだけである。

郡司は終身官だから国司よりも位階が上になることが珍しくないが、道で国司に会ったら馬から降りて敬礼しなければならない。律令制の下では位階が身分だから本来そのようなことはあり得ないのだが、国司と郡司という関係になるとそうした律令制の原則から外れたことがまかり通ることとなる。

収入自体はそれなりにあり儲けることはできたらしい。朝廷が貧民のために無利息の稲を貸し出せば、国司と結託していち早く借りてきてそれを利息を付けて農民に貸し出して利益を得ることができるし、徭役の徴発の際にもごまかして私利を図る余地があったらしい。また、そういうことをしなくても、大領なら六町、少領なら四町、主政・主帳なら二町の識田が支給され、国司の識田は最も大きな国でも二町六段だから、それなりの収入があった。しかし、『地方官人たちの古代史』によると、有力農民でもニ町の識田は持っていたようで、支給される識田の魅力はそれほどないように思われる。

8世紀末になると、畿内では郡司の職務が繁忙であるのに位階が外位であるということで、就任を辞退する者が増え郡務に支障を来すようになっていった。そのため799年(延暦18年)に郡司に内位を授けることになり、畿内では郡司に就任することを希望する者が増えたが、就任したら病気と称して退任するものが相次いだ。一度位階をもらったら官職から外れても位階がなくなったり下がったりすることがないから、そうしたことが起きてしまうのである。政府は仮病なら位階を剥奪すると強い姿勢で臨んだが、仮病は見抜けるものではなく実際は剥奪できなかったらしい。病気を理由に退任した者が、病気が回復したといって復帰し、位階に相応した職に就く者も増え、政府から復職した者は元の通り郡司に戻すよう命じられている。

長岡京や平安京の造営により役夫が多数必要になると、その調達のため更に激務となったのが原因らしいが、郡司になりたがらないのは大領・少領だけではない。その下の主政・主帳も就任を避ける者が多く、朝廷は主政・主帳にも位階を与えることにした。既に位階を持っているものには一階昇進、無位であれば外少初位下の位階が与えられることとなり、一番低い外少初位下でも雑徭免除の権利が得られる。八位以上になれば庸・調も免除となる。

しかし主政・主帳も激務であることには変わりはなく、その地位に留まらず、大領・少領と同じように病気を理由に退任して一族などの間でたらい回しにするようになる。任じられてもほどなくして退任し位階だけもらう者が増えれば中央政府としては税の収入が減る訳で、平安時代にそれを咎める命令を出すが、こうしたイタチごっこが起こることとなる。

こうした状況に対して、畿内では郡司を確保するよりも国司のもとで有位者を含めて様々な人々を国務に従事させる方針を採るようになる。そもそも大宝律令の施行によって国府は政治都市となり物資が集中する経済の中心となった。律令の施行前は地方豪族が自ら都まで税を貢納していたが、律令の開始後は国府まで運べばよくなった。都と国府の間を往還するのは国司が組織する人々となり、国府が各地の行政の拠点としての機能を強めていった。これまで郡の雑務をしていた中小豪族は郡司から離れ国司のもとへ、あるいは中央貴族のもとへと移動し、郡司のその土地での影響力は次第に低下していくこととなる。

こうしたことが起きた理由には、9世紀以降の擬任郡司という非正規の郡司が増えたことも挙げられる。郡司になるには国司が候補者を選定し、都に行って選考試験が受かることが決められているが、選定されてから試験を受けるまでの期間を擬任という。都での選定試験には中央貴族が関わるが、力量よりも家柄を重視し、能力のない者が赴任して郡務が機能しないケースが9世紀になると増える。そのため郡司の選考は国司に一任することにしたが、3年の試用期間を設けることとした。

しかし国司は3年の試用期間を無視して、そのまま擬任させるようになる。国司の選定を待つ擬任郡司は国司の顔色をうかがいながら働く訳で、国司にとってはその方が都合がいい。擬任郡司は大領・少領だけでなく主政・主帳と個々に存在し、しかもそれぞれ複数いる。こうした状況は国司の統制力を強化し、また郡司は役職内での自身の支配力を低下させることを意味した(擬任が数人いて自分と同じように仕事ができる者が多いから)。

こうした状況が後に郡司を有名無実化していく要因となる。中央政府と郡司とのイタチごっがこうした状況をつくり、郡司の支配を支えていた中小豪族が郡司から離れるようになり郡司の支配力が低下したといえるし、また郡司の支配力が低下したから中小豪族が離れていったともいえる。

『日本の歴史3 奈良の都』には「地方財政の権限を国司・郡司に一任したのも、大宝令による地方行政に必要な諸経費をまかなわせるためであった」と書かれており、律令制の下では郡司は国から収奪される存在だった。律令制がスタートする前は、国造や郡司が賦役に従事する役夫の移動中や労働中の食糧を面倒みることとなっていて、国造・郡司の財力が弱まった頃合いをみて大宝律令を施行して国司をその上に置き、役夫の面倒は中央でみるといったことも書かれている。大化の改新後に地方豪族からこれらの田畑を没収できなかったことがその要因になっているのだろう。

郡司が位階をもらったら後は退官して親族内で郡司のポストを押し付け合ったのも、郡司なりの反抗と取れる。奈良時代を特徴づける国司と郡司の地方行政制度は、7世紀からの要素を強く持つ郡司と、大宝律令による新たな制度である国司という二重の地方行政システムだった。地方豪族である郡司には官僚としての側面もあり、それなりに機能し律令国家を支えたが、機能することで郡司のあり方が変化し、また国司のあり方も変化するようになる。「制度が機能することによって、その制度みずからを変質されるというパラドックス」が現れたといえる(『地方官人たちの古代史』)。

郡司といえば、自分にとってはかなりマイナーな存在である。飛鳥時代や奈良時代自体が歴史の中でも馴染みのないものだから、郡司となると更によく分からなくなる。受験で郡司という単語を覚えただけでその中身はほとんど分からない。地方豪族だと言われれば何となく分かるが、平安時代以降その存在感は薄れていき、いつのまにか歴史から消えてしまった。そんな印象がある。

そんな郡司だが、奈良時代の本を読んでみるとどういう仕事をしてたのか分かるし、郡司に注目することで奈良時代のことが見えてきたりもする。

参考文献
中村順昭『地方官人たちの古代史』吉川弘文館(2014年)
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)
森郁夫・甲斐弓子『平城京を歩く』淡交社(2010年)
直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』中公文庫
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫

コメント

タイトルとURLをコピーしました