京都府【旅の拾いもの】江戸幕府がお願いして開山した珍しい寺院 萬福寺

京都府

京都の宇治と言えば、平等院鳳凰堂が有名だが、宇治には萬福寺という隠れた名所がある。
黄檗宗という、念仏と禅を結び合わせた念仏禅を特徴とする宗派の大本山で、ユニークな寺院である。

境内は左右対称に伽藍が並び回廊がそれを囲み、チーク材という日本では見られない柱が回廊に立ち、木魚の原型と言われる開梛(かいぱん)があり、日本の他の宗派にはない異国の雰囲気が漂う。

江戸時代に創建した禅宗の黄檗宗は、日本に様々な文化をもたらし、たとえば、この寺を開山した隠元禅師が明からもたらしたインゲン豆をはじめ、西瓜(すいか)や蓮根(れんこん)、孟宗竹(たけのこ)、木魚、明朝体の書体、400字詰の原稿用紙の規格、テーブル、そして煎茶などがある。これだけでも黄檗宗がいかに日本に影響を及ぼしたか理解できる。

そんな萬福寺だが、この寺院の創建の経緯が興味深い。萬福寺は寛文元年(1661年)に4代将軍徳川家綱が、宇治の土地を与えて開いた寺院である。当初3年の滞在予定だった隠元禅師を引き留め、住職になることを強く勧めて創ったという。

江戸時代という幕府が寺社統制をした時代に、幕府がお願いをしてそれまでなかった宗派の寺院を建てた訳だが、そこまでしたのはなぜだろうか。

旅をした時は気付かなかったが、旅が終わってから気になり調べてみると、以下のような事情があったことが分かった。

貿易統制をしていた江戸時代、長崎には華僑と呼ばれる沢山の中国人が住んでいたが、彼らの信仰を受けとめ、また葬儀を行う寺院や僧侶が不足していた。

それまでは長崎の日本の寺院の中に華僑の墓地が設けられていたが、寺請制度が成立するとそれができなくなり、中国僧が開山した寺院でしか埋葬できなくなった。

そのため長崎では後に長崎三福寺と呼ばれる興福寺・福済寺(ふくさいじ)・崇福寺(そうふくじ)をはじめとした寺院が急ぎ造られ、これらの寺院は特定の宗派に属さず広く華僑の信仰を受け止めた。

当時の幕府の寺社統制は本山に末寺を監督させるものだったため、そうしたなか、華僑の寺社を監督する本山が必要となった。

そこで幕府は隠元が寺社統制の一端を担うことを期待し、京都の宇治に華萬福寺を建てたというのだ。当時高齢だった隠元が来日したのも、そうした要望に応えるためだったようだ。

萬福寺が創建されたのは、江戸幕府の宗教政策と貿易政策が関係あったと言える。

話が反れるが黄檗宗に組み込まれた長崎の唐寺の僧たちは、飢饉が起きた時に各地で、施粥(せがゆ、もしくは、ししゅく)と言う、お粥の炊き出しを行ったことが記録に残っている。

萬福寺からも、宇治で薬を売って得たお金を、火災で被害を受けた人に使った僧侶を始め、名僧が幾人も輩出されたという。

以前は鎖国と呼ばれていた江戸時代は近年では解禁政策と言われているが、海外交易を考えるとどうしてもオランダを思い浮かべてしまう。しかしオランダよりも中国大陸との貿易の方がはるかに多く、その影響もしかり、だった。

江戸時代を考える時に、中国大陸のことを意識すると、また違った発見がいろいろとあるのかと思う。
と同時に、長崎を旅する時にそうしたことを意識すると、また違った旅の楽しみ方があると思う。

萬福寺は京都の有名な寺院に比べると、知名度が下がるが、創建の経緯や明様式の建物、黄檗宗のスタイルや文化について知ると、興味の惹かれる寺院である。
平等院とそれほど離れていないので、平等院に参拝した際は万福寺にも立ち寄るのがお勧めである。

ちなみに、『チベット旅行記』を書いた川口慧海は黄檗宗の僧だったらしい。明治時代に鎖国していたチベットに単独で足を踏み入れた、超人のような人物である。
東京本所の五百羅漢寺の住職をしていたのだとか。

参考文献
島田裕巳『京都がなぜいちばんなのか』ちくま新書(2018年)

『古寺巡礼 京都19 萬福寺』淡交社(2008年)

竹貫元勝『隠元と黄檗宗の歴史』法蔵館(2020年)

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