大宝律令がスタートした奈良時代の初期は、僧尼になることのは難しかった。僧尼は公務員のような官僧であり、税金免除をはじめとした優遇措置があったため、相当の学問と修行が求められた。持統朝から毎年定期的に僧尼になるシステムができたが、その数は限られ狭き門であった。
しかしこれは、740年代に造寺造仏が盛んになるとすっかり甘くなる。734年(天平6年)に、ろくに修行もせず縁故や賄賂で僧尼になることを禁止し、また法華経一部か金光明最勝王経一部のどちらかを暗誦し、礼拝の作法に通じ3年以上身を修めないと度牒しないと法が改正されているから、その頃から僧尼になる資格が緩くなっていたが、大仏造営以後は更に緩くなる。
度牒を申請する際に優婆塞・優婆夷貢進文(こうしんもん)という推薦状のようなものが提出されることになっており、これが幾つか正倉院に残されている。その貢進文を見ると、年が経つごとに僧尼になる学力が著しく低下していることが分かる。始めが732年(天平4年)の以下のものである。
秦公豊足 19歳 美濃国
読経 法華経一部、最勝王経一部、方広経一部、弥勒経一部、涅槃経一部、雑経15巻
誦経 薬師経一巻、観世音品、多心経
誦呪 大般若経呪ほか12の呪
唱礼具(つぶさなり)、浄行8年
「唱礼」は仏の名前を唱えて礼拝することで、先の礼拝の作法に通じた者であることを示しているが、「具(つぶさなり)」というのは欠けることがない、もしくは細かく行き渡っている、詳しいという意味らしいから、ほぼ覚えているということだと思われる。「浄行8年」から最低でも3年は身を修めるという資格を満たしていることが分かる。
しかし、お経を暗誦できる「誦経」は薬師経一巻、観世音品、多心経だが、いずれも一巻である。これは732年(天平4年)のものだが、後の734年(天平6年)に
法華経(8巻)か金光明最勝王経(10巻)は暗誦しなさいと規定されているから、これでも本来の資格から言えば学力の面では足りていない。
これが742年(天平14年)のものになるとこうなる。
秦大蔵連喜達 従六位下秦大連弥智庶子
読経 涅槃経一部、ほか7つ
誦経 理趣経一巻
修行12年
暗誦できるお経は一巻のみ、読経には文学書のようなものも入れているらしい。官人の次男坊か三男坊が縁故を頼りに僧になろうとしたらしい。
そして、752年(天平勝宝4年)の推薦文はこのような内容になる。
宗形部岡足 17歳
4年12月17、5年正月27、2月27、3月29、4月2、5月27、6月25、7月23
もはや学力だけでなく修行した期間すら書かれていない。東大寺の大仏建立などの土木事業やその他の雑務に働いた日数を書いているだけである。聖武天皇が大仏や大仏殿を知識たち(僧が率いる無償労働者の集まり)の奉仕で完成させようとしてから、こうした縁故関係と勤労奉仕だけで僧尼になる者が急に増えた。学問も修行期間も書かれていない推薦状が出てくるのは、745年かららしい。
鎮護のための経典を研究し国家行事で祈祷をするのが本業であるはずの僧尼のレベルが、著しく低下していることがよく分かる。国費でその生活や活動が保証され、また免税をはじめとした優遇措置を取られていた僧尼がこのようなレベルになったことから、律令制が崩壊していると思えなくもない。
しかし興味を持つのが、僧尼の数が激増すればその中には優れた者も多くなり、一概に僧尼のレベルが格段に落ちたとはいえないらしいのだ。奈良時代末期から平安時代初期にかけて、学僧が書いた本が急に増えていて、南都六宗は学問仏教といわれただけあり、多くの僧が経典の研究にあたっていたのだ。そしてそれが後に最澄や空海の新仏教を生む基盤となるが、それだけ勉強ができる環境だったことも知られている。
平城京にある寺院には、現在の大学のように講堂があり図書館があり食堂があり、学べる環境は整い、基金もあり金銭的にも余裕があった。それぞれの所属する寺があり、専門的に学ぶものがあったが、学びたい僧は他の寺院で聴講することが許されていた。学生にあたる僧だけでなく、教授にあたる教える立場の僧も、所属する宗派・寺院の枠を超えて講義を受けることができ、学ぼうとする僧には恵まれた環境だった。
そのため、学僧たちの世界では身分も所属する寺も関係なく、実力のみが支配した。学僧同士の論戦も激しかったようで、学問・著述・論争が活発に行われた時代であった。
参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)
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