【小話】奈良時代 高い理想を持った国司

国司といえば、ろくに仕事もせずに偉そうにして、百姓から取れるだけ税を取り金儲けに精を出したというイメージが強い。中央から地方に派遣されても任期は4年〜6年であるから、地方の行政に向き合うことよりも百姓から搾れるだけ税を搾り取って私服を肥やしていた。そんなイメージがあった。しかし奈良時代の本を読んでみると、大宝律令が施行された当初の国司は全く逆で、律令で決められたことを真面目にこなし、働きに働くといった存在だったことが分かる。

『日本の歴史3 奈良の都』にはそうした国司が描かれていて、中央の奈良の都では平城京の造営に必要な労働者の数を自ら割出し、現場で指揮を取り、地方では国司自らが農業指導を行ったことが書かれている。上野国の長官に任命された田口益人(ますひと)は、国司として赴任する道すがら、風光明媚な場所として都でも知られていた駿河の田子の浦に夜に着いたが、残念だと思いながらも一泊みすることなく通り過ぎて行く。

同じく国司として筑後国の長官に任じられた道首名(みちのおとひな)は、現地で農業指導をし土地の増産に成功し、赴任先の百姓から崇められ死後に神として祀られた。皆が皆そういった良吏だった訳ではないが、後の奈良時代後期・平安時代に見られるような私腹を肥やす国司はまだそれほど多くはなかった。いたとしていも、後の時代のものよりの度が過ぎてはいなかったようだ。

また、『若い人に語る奈良時代の歴史』には国司の仕事量の凄まじさが書かれている。国司は毎年4種類の文書を作り、交代で1年に4回都に運ぶが、それは次のものとなる。計帳(調・庸を徴収するための台帳)、朝集帳(国司や郡司などの地方官の勤務成績をまとめた帳簿)、正税帳(国府の主な財源である正税、稲についての帳簿でいわば地方の財政報告)、調帳(調・庸の物品の品目名・数量を記した帳簿)の4つ。

4種類の主要文書は全国一律の書式に基づいて書き、当然数値も正しく書かねばならないから正確な計算能力が必要だし、楷書で丁寧に書かねばならない。それだけでなく、作成したその文書が実態を正しく反映していることを証明するために、枝分と言われる沢山の付属文書も作成して都に持参しなければならなかった。枝文は、計帳の枝文なら郷戸帳・浮浪人帳・中男帳・高年帳・廃疾帳・死亡帳・喪遭帳など、26種類もあったらしい。朝集帳の枝文は21種類、正税帳のは6種類、調帳が10種類と、合計60種類以上にもなる。全てがつじつまが合っていないと当然駄目で、誤りがあれば中央政府から責任を追及される。

『若い人に語る奈良時代の歴史』には正税帳の計算一例が載っているが、複雑で一見しただけではさっぱり分からない。電卓やパソコンのなかった時代に多くの書類を作り計算したというのだから、大変な作業であることは容易に理解できる。著者によると、国司の仕事は地方を実地視察して行政にあたるというよりは一年間ともかく必死に文書を作り続けていたのではないかと思えるほどだとし、これは郡司や里長ではとうていできないと書いている。国司の文書作成は6年に一度だけで、戸籍作成の時に文書作成に追われたのは郡司で、国司は郡司が作った戸籍をチェックするだけかと思ったが、そんなことはなかった。

そして、当然こんな複雑な文書作成が継続できるはずもなく、平安時代になると国司は実態とは必ずしも一致しない内容の帳簿を作るようになる。単に帳簿同士のつじつまが合えばいいとタカをくくるようになる。それもそのはず、中央政府もそれを十分にチェックして不正を摘発することなどできるはずがないからだ。

『日本の歴史3 奈良の都』では中央官人や国司などの貴族を「高い理想を持った貴族」と書いている。『若い人に語る奈良時代の歴史』では律令制開始間もない頃の奈良時代を「詳細な律令の規定を生真面目に実施にうつそうとした特異な時代」と書いている。

律令制が開始した奈良時代を実態に合わない高い理想を追い求めた時代と冷ややかに見ることもできるが、何が何でも律令制を浸透させていこうとするその姿勢からは、強大な唐に追いつこうという気概が感じられる。田口益人や道首名から分かるように、奈良時代の初期・中期は熱い貴族がいた時代だと分かる。そんな目で奈良時代を見てみると、面白い。

参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)

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