奈良時代、家族と共に働くことだけが生きがいだった百姓たちが一番恐れたものは、徭役という名の強制労働だった。『 日本の歴史3 奈良の都』には平城京で働く役夫の様子が描かれている。 平城京の造営には日本各地から役夫が集められ、厳しい現場に配置させられた。
律令では、役夫の使用期間は10月~3月の農閑期は50日以内、4~9月の農繫期は30日まで働かせてよいことになっており、農閑期なら少なくとも3交代は必要となり、都に近い国から第一班の役夫が送られてきて、次にそれよりも遠い国から第2班が、そして遠国から第3班がという具合に役夫が集められた。
中央の官人が国家予算から必要な役夫の数を割り出し、それを国司に通達し、国司は郡司に各里から役夫を集めるよう通達する。里(郷)にいる百姓はある日突然、里長から呼び出され、糒(ほしよね・乾燥米らしい)などの携帯食を持って国司の下に集まり、都まで兵士の護衛付きで歩かされることになり、都に着いたら各現場に振られることになる。
食料は官給で、工事現場で支給される食糧は1日に玄米8号と塩1勺、雨が降ると仕事がないため半分になる。病気をしても同様。医者は天皇や貴族のためであって役夫の病気が診られることはない。労働時間は連日朝から夕方、夏の2カ月間は2時間の昼休みがある。官人は6日毎に休みがあるが、役夫は雨が降らない限り休みがない。
工事場では東国の者と西国の者とで言葉が通じず、賃金(布)は何十日かの労働が終わってからでないと支給されず、708年(和同元年)からは和同開珍が支払われるようになったが、都を出たら帰る途中の田舎では誰も物を売ってくれず、銭は使えなかったらしい。
労役から逃れる逃亡者は後を絶たず、役夫を監視する衛士までも逃げた。衛士もまた国元から駆り出されていたのだ。毎月のように何人かが逃げ、ある時は何十人もまとまって逃亡し、その都度逃亡者が出た国は別の役夫を集めてまた都に送る。
逃亡する理由は労役の過酷さだけでなく、労役が終わっても無事国元に帰れる保証がないからだった。帰路の食糧は自身で用意しなければならず、往路と同様に引率者に連れられ故郷に帰る途中で食料が無くなり、次々に落伍者が出ては飢え死にしていった。
それに労働期間も守られないことが多かったようだ。天平年間の末、朝廷は雑徭の期間を60日から30日にしたが、国司がいつの間にか元通りにしたことがあり(『日本の歴史4 平安京』)、そうしたことが都での課役にも行われており、いつになったら課役から解放されるのか分からない状況に役夫は置かれていたと考えられる。
逃亡した役夫は都を一歩出れば自力で生きていくことは困難で、ある者は貴族や寺社の庄園に駆け込み、またある者は賊や偽金造りの集団に入ったのだろう。逃亡民が知らない土地の道で飯を炊くと近所の者が出てきて、俺の所で勝手に飯を炊くなと怒鳴られ、またある時は、親切そうな者が道具を貸してやるから飯を炊いたらいいと言っておきながら、後から道具を壊した、よそ者が道を穢したと言って物品を強要することもざらにあったらしい( 『 日本の歴史3 奈良の都』 )。そんな状況だったものだから、徭役から逃げ出したところで一人で生きていけることは稀だった。
『国銅』という小説には奈良の大仏を造るために地方から集められた役夫の生活が描かれている。国元から役夫に送られてくる仕送りが平城京の役人の懐に入ったり、国元に帰るために貯めていたお金が他の役夫に盗まれたり、給付されたお金を博打や売春に使ってしまったり、帰路で盗賊に身ぐるみを剝されたりといったことが書かれている。
物語は鉱山から銅を掘り出して精製して棹銅を作り、その棹銅で巨大な大仏を造る話が描かれているが、本を読むと奈良時代の課役の過酷さを知ることができる。興味のある方は『国銅』も奈良時代の百姓の生活を知るのにおすすめだと思う。
参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中公文庫
帚木蓬生『国銅 上』新潮文庫 (kindle版)
帚木蓬生『国銅 下』新潮文庫 (kindle版)
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