『日本の歴史5 王朝の貴族』には当時右小将だった藤原兼房が蔵人頭に暴力を振るったことが書かれている。ある晩、居間でお酒を飲んでいたところ、何が原因か分からないが兼房は蔵人頭を罵倒し、据えてあった菓子を足で蹴散らし、蔵人頭が席を立とうとすると今度は冠を奪おうと掴みかかった。当時、冠を頭から外すことは今でいえばズボンを脱いで下着姿でいるような恥ずべきものであった。その場から蔵人頭は逃げ出したが兼房は怒りが収まらず、蔵人頭を追いかけ、逃げ込んだ部屋に石を何度も投げつけたことが書かれている。
蔵人頭といえば殿上人の総帥でその権威は極めて高く、当然このようなことは前代未聞だと騒ぎになった。しかし、右大臣の藤原実資は断固たる態度を取らずに逃げた蔵人頭を非難し、また道長は乱暴者を叱責しつつも20日後には当の本人の参内を許している。これは兼房がその家柄故に乱暴な振舞を大目に見られたのもあるが、当時は上流貴族が暴力を振るうことは珍しいものではなかった。
『殴り合う貴族たち』には史料に残された平安貴族の乱暴がいくつも書かれている。宮中で取っ組み合いの喧嘩をし、柄の悪い従者を引き連れて集団リンチをし、時には相手方の従者を殺し、邸宅を壊し財産を奪う。権力の頂点に立った藤原道長でさえ、若い頃には試験官を路上で拉致して監禁している。自分が懇意にしている受験者の試験結果の改竄を迫り、それが駄目だからといって暴挙に出たのだ。
始めに書いた、蔵人頭に暴力を振るった藤原兼房は、その後、丹波守をはじめとしていくつかの国司を歴任している。また、道長の政敵であり、道長の従者と乱闘を起こしたことのある藤原隆家は、太宰権師(大宰府の最高責任者)に左遷された後に刀伊の入寇が起こると大宰府官人や豪族を率いて勇猛果敢に撃退している。
このように暴力的な上流貴族が地方に赴任した際、その性格が悪い方向に向かえば現地民を苦しめ、良い方向に向かえば現地民を助けることになった。郎党を従えて苛政を行い私腹を肥やす国司がいた一方で、時代が9世紀に遡るが、農民を駆使して灌漑を行った藤原高房のような気概のある国司もいた。高房は迷信を広めて治水灌漑を邪魔する巫女や盗賊を追い払い、歴任した国で治績を上げている。
そして隆家のように国を守った者もいる。こうした暴力的とも気概があるともいえる平安貴族の性格を考えると、当時の政治や地方行政を知る参考になるのかと思う。またさらには、貴族が暴力的な従者を重用し、自身の権力拡大に用いていったことを後の武士の発生に繋げてみるのも、平安後期を考えるうえで面白いのではないかと思う。貴族の乱暴な振舞は『殴り合う貴族たち』に詳しく書かれている。
参考文献
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』中公文庫
繁田信一『殴り合う貴族たち』文春学藝ライブラリー(2018)
北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中公文庫
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