奈良時代の貴族には、仕事に対する収入のみならず様々な特権があり、その特権は子孫にまで保証されていた。貴族とは一般的に五位以上の位階を持つ者を指すが、五位と六位の位階の間には越えられない大きな壁があり、どんなに優秀な者でも家柄が無ければ五位になることはできなかった。
貴族の給与を現在の金額に換算すると、三位以上、今でいえば閣僚クラスの年収は一億円を超え、四位で4~5000万、五位で2000万といわれている。しかし六位になると165万と大きく下がり、最下位の少初位下は60万となる(『若い人に語る奈良時代の歴史』)。五位と六位の間に決定的な断絶があることが分かる。
ちなみに、六位以下~少初位下の者は中級官人といって常勤で働いていた。給与は少ないように思えるが、他にも口分田をもらい税金を免除されるから、暮らしていくことはできる。
貴族が住まいとして平城京に与えられる土地は1町(下級官人は1町の16分の1とも32分の1ともいわれている)で、資人という警護や雑務をこなす人が付与され、絁(あしぎぬ)や綿、布などの年に一回支給される位禄があり、位田・位封(私有地・私有民)も与えられる。
ついでに、一位~三位だと、位禄はないものの膨大な位田・位封が与えられ、またその子孫が父祖と同じ地位に登りやすい制度(蔭位の制・おんいのせい)がある。三位以上は孫まで、四位・五位は子までが、どんなに凡庸であっても仕官の際には最初から高い位階を授けれるようになっていて、五位なら八位からスタート、三位なら嫡子は六従位上、庶子なら従六位下、嫡孫なら従六位下、庶孫なら正七位上からスタートできるようになっていた。
貴族の特権はこれら経済的なことだけに止まらず、裁判にも及んだ。流罪以外なら減刑処置が取られ、本人だけでなくその家族も対象となる。また刑罰の代わりにお金を納めることでその家族は実刑を免れ、当の本人は官職や位階を剥奪されることで実刑を免れた。よほどのことがない限り、貴族が実刑を課せらえることはなかった。
その他、職務上のものでは、貴族は机と椅子で仕事をし、宿直がないことも知られている。非正規の下級官人は床に敷物をしいて仕事をしていたし、中級官人や下級官人には交替で宿直があった。
平城京の官人が1~2万人として、五位以上の貴族は100~200人と一握り。
奈良時代の律令制の下では貴族にはあらゆる特権が約束されていて、家柄の良いものが再生産されるシステムだったが、律令制が施行され時に既に大きかったこの格差は、格(きゃく)と呼ばれる律令の部分修正が行われる度にむしろ広がっていった。
これは唐とは違った制度であり、唐では官人の個人の能力に対して官職を与えたのに対して、日本では家柄のある者に対してそれに相当する官職を付けたともいえる。
補足として、官職とは仕事の役割で、位階は社会の中での個人の序列となる。位階があればたとえ官職(役職)がなくても位に対する給料がもらえたから、官職よりも位階が全てだった。
ついでに、官職のない人を「散位」といい、散位寮という役所に行き退勤時間まで過ごせば官職に対する給与はもらえたが、貴族にとってそのようなことをしなくても暮らしていけるし、また体裁もあり、散位寮というたまり場に通うようなことはしなかったらしい。
参考文献
中村順昭『地方官人たちの古代史』吉川弘文館(2014年)
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
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