旅の3日目は伊勢神宮に参拝した。伊勢神宮と言えば、一生に一度はお伊勢さんと言われる、日本を代表する観光地だ。朝焼の綺麗な空を見ながら旅の1日を始め、暑いなか昼も歩きに歩いて別宮を参拝し、外宮・内宮の素晴らしい空気の中で神聖な場所に身を置くことができるといった、まさに旅冥利に尽きる充実した1日だった。旅が終わってからも、行って良かったと思える場所であるし、もう一度参拝したいと思う場所である。
そんな伊勢神宮について知りたいことは沢山あるし書きたいことも沢山あるが、今回は伊勢参りについて書いてみようと思う。江戸時代の伊勢参りはどんなものだったのだろうか。当時の旅人の心情はどんなものだったのか。旅人として気になる。関心があるので調べるのが楽しかったし、読んでみたい本がいろいろあるが、とりあえずの知識で伊勢参りについてまとめてみたい。
伊勢参りとは、江戸時代に流行った伊勢神宮に参拝する旅である。お蔭(おかげ)参りと言われることもあるが、これは爆発的に起きた民衆による伊勢参りのことを指す。60年周期で爆発的な伊勢参りが起こったと言われているが、実際は慶安3(1650)年、宝永2(1705)年、享保3(1718)年、享保8(1771)年、明和8(1723)年、文政13(1830)年、慶応3(1867)年に不定期で起きていて、慶応3(1867)年のものは「ええじゃないか」といわれ、それ以外の6回のものを「お蔭参り」と言う。
伊勢参りとは、公家や武家だけてなく、庶民が村を離れて数十日かけて伊勢神宮に参拝するものだ。江戸からだと15日かかるとされ、旅費は片道10万円くらいと言われている。往復で約1ヶ月旅をし、場合によっては伊勢参りの後に京都や大阪に、更には金比羅山まで行くこともあったから、人によっては40日、50日旅をすることもあったのだ。
江戸時代に庶民がそんな長旅をすることができたのかと、疑問に思う人も多いかと思う。江戸時代は暗い時代で庶民は貧しく武士に虐げられていた、といったイメージは未だに根強く残っているのかもしれない。確かに庶民が旅をすることは、各藩の法で禁止されていたが、実は名目があれば旅ができたのだ。
当時から既に伊勢神宮は、天皇家が祀る国を代表する神社であった。それに、太陽神と農業神が祀られていたから、農業と深く関わっていた。したがって、国民なら誰しも参拝する権利があり、伊勢神宮に参拝するという名目で届けを出せば、お役所は認めざるを得なかったのだ。参拝では他にも、富士山や善光寺、日光東照宮や四国香川県の金毘羅山にも、お参りという名目で出かけことができた。江戸から比較的近場では、大山詣や成田山新勝寺詣、金沢八景、鎌倉や江ノ島なども人気だったようだ。また、湯治も病や怪我を癒すための治療行為として認められていたのだが、これも興味深いものである。
お参りにしろ湯治にしろ、庶民が藩をまたいで移動することができた訳だが、そこから当時はインフラが整っていたことが理解できる。街道が整備され、宿場町が栄え、ある程度安全だったのだ。江戸幕府が成立してから100年も経つと、五街道だけでなくそれに繋がる脇街道や枝街道も整備されるようになる。疲れたら馬に乗り、お腹が空いたら食事をし、暗くなったら泊まる宿があり、旅ができる条件は揃っていたのだ。こうした中でお蔭参りが爆発的に起こり、旅をすることが各地に広がっていったのだ。
これも意外に思われることかも知れない。江戸時代は庶民(学校では大半は農民だと教わった)は行動を束縛され、監視され、重い税に苦しめられたと、自分は教わってきたが、実は必ずしもそうではない。飢饉や地震などの天災に見舞われた時は餓死者が出たり一揆が起きたりしているが、いつも厳しい生活を強いられていた訳ではない。それに一言で江戸時代と言っても265年ある訳で、前期と中期と後期とでは一括りにできないほど生活の違いがある。ネットで調べてみると、江戸時代の旅を扱った面白そうな本は沢山出版されているから、時間を見つけて読んでみたいものだ。
さて、伊勢参りだが、江戸中期は農業の生産量が増え、農民の生活水準が向上した。とは言え、当然庶民が個人で旅に出かけられるのは、ごく一部の者に限られていた。農民でも伊勢参りができたのは、「講(こう)」というものを村で組織したからだ。講とは、皆が少しずつお金を捻出し、伊勢参りの旅費を積み立てるというものだ。くじ引きで伊勢参りをする人を選び、村の代表者として伊勢に参拝するというものである。伊勢参りをする頻度は1年に一度なのか数年に一度なのかは、積み立てる金額によるのだが、大抵全員が一度は行けるようになっているというシステムだ。くじで伊勢参りに当たった人は、村を代表して伊勢神宮に参拝し(代参という)、村人にお守りやお土産を買って帰るというものである。大体、一つの村から2、3人の代表が伊勢参りに出かけたようだ。講は今でも残っている地域がある。昭和や平成の時代に終わったのかと思っていたが、昨年山梨県のある土地を散策していた時に、地元の人から講の話を聞いた。日本の各地にはまだ講が盛んな地域があるようだ。
講というシステムのおかげで、村人も伊勢参りに出かけることができたのだが、旅をスムーズに進めるには御師(おし)の活躍があった。御師とは、簡単に言うと旅のコーデネーターのようなものである。その中でも、伊勢神宮の御師は他の御師と区別するために「おんし」と呼ばれたのだが、門前町に住む神主、旅行斡旋業者、旅館経営者の顔を持つ存在である。
爆発的に起こるお蔭参りや主人や家族に断りもなく突発的に伊勢参りの列に入ってしまう「抜け参り」なら、旅のコーディネーターは不要だが、そうでなければ御師に面倒を見てもらうのが一般的だった。御師は特定地域の人々を檀家にもち、檀家に神宮のお札を配って初穂料を受け、伊勢参宮を勧める。伊勢神宮に参拝する人がいたら、彼らを迎えに行き、先導し御師の家に宿泊させ、参宮の案内ををする。そういったことをしていた。江戸時代まで伊勢神宮では私弊の禁というものがあり、奉納の金品は御師が預かり、神楽は御師の家の神殿で奉納された。庶民だけでなく、朝廷・公家、将軍や大名、武士も檀家に属していたが、御師が檀家に配るのはお札だけでなく、伊勢土産の紙煙草入れ、櫛、白粉、万金丹などがあった。万金丹は、山田の町で製造された解毒、気つけに効果のある薬のことである。
御師は必ずしも伊勢神宮の近くで活動するとは限らず、全国各地に檀家を取り込むために派遣されていた。今でいう会社の営業担当のようなイメージだろうか。その土地で祈祷やお札配りをしながら信者を増やし、伊勢に参拝する者がいたら道のりや手形の発行などの旅の仕方を教え、伊勢に送り出す。伊勢の方にはその御師の手代(代理)がいて、参拝者を迎え入れて面倒を見る。といった活動をしていたのだ。現代の旅行代理店と変わらず、現代の仕組みは江戸時代には既に出来上がっていたことが理解できる。
御師が現代の旅行業者顔負けの存在だったと言われるのは、「代参」というシステムを作ったからだろう。先ほど書いた講という相互扶助のシステムのことだ。講に入っている集団で旅費を積み立て、そこから集団を代表して参拝するするシステムを作り上げたのだ。「江戸庶民の旅」という本によると、このシステム自体は中世から既にあったようだ(P39)。中世の寺社については「寺社勢力の中世」という面白い本があるのだが、その本の中で確かに「聖(ひじり)」という存在として、書かれている(P140)。「高野聖」の「聖」である。
御師は伊勢の信仰を広めるのに大きな役割を果たし、参拝客を集め宇治・山田の町を潤し、伊勢土産を通じて文化の伝播にも一役買った。多くの参拝者が来る伊勢神宮の近くでは、茶屋ではご当地の名物が売られ、街道では農業の閑散期に馬を出して駄賃を稼ぐ者が現れ、地元の庶民も伊勢参りのおかげで生活の糧を得ることができるようになった。茶屋で出されていたのが、関の戸餅、へんば(返馬)餅、長餅、松かさ餅、赤福餅などであり、今では三重の銘菓(もしくは、銘菓の前身となるお菓子)になっている。稲木のたばこいれも茶屋や宿で売られていたようで、旅に使う小物やお土産になる小物も、伊勢から各地に広まったとされる。
そんな伊勢の経済を活性化する役を担った御師たが、明治4年1871年に神宮改革によって、御師職そのものが廃止された。明治の初めには外宮に480軒、内宮に200軒あった御師職もその活動を終えることになり、農業に従事したり宿屋経営に転じたり、お土産を売り渡って細々と暮らすようになったりした。現在でも富士や御岳、大山に御師の宿があり、その名残がある。
伊勢参りを調べていて、一つ興味を持ったものがある。それは精進落としだ。精進落としというと、今では初七日法要の際にお坊さんや世話役の人を労う宴席での食事を思い浮かべる人が多いのかと思う。もしくは、四十九日の忌明けに普通の食事に戻す昔の風習を思い浮かべる人が多いのかと。仏教の教えに従い、親類が亡くなった時に49日間は肉や魚の食事を断ち、精進料理をとるというものだ。しかし伊勢参りの精進落としとは、参拝後に遊郭や花街に繰り出すことである。
多くの参拝者によって賑わいを見せた伊勢には、古市という場所(伊勢市)に名の知れた遊郭があった。古市は外宮から内宮に向かう、参道街道の中間に位置するのだが、元禄期には遊郭が軒を連ね、未公認の遊郭として発展していた。参拝者は長い道のりを歩き、肉や魚、お酒や性行為を慎しんで参拝するが、参拝が終わると花街や遊郭に繰り出すことが娯楽とされていた。一生に一度の長旅をし、念願の伊勢参りを済ました参拝者達は、参拝するという目的や普段の生活から解放されて、楽しい思いをしたのだろう。遊郭で羽目を外すことを旅の本当の目的とした人もいたのだろう。
参拝者が遊郭に行くのは罰当たりに思えるし、いかがなものかと思える。しかし当時の考え方というのか、風習では、寺社に参拝することが「精進する」ことで、参拝を終えたら「精進落とし」をするものだとされていた。寺社には人間の世界と神域を区別するものがある。鳥居がそうだし太鼓橋もそれにあたる。神様の世界で祈願をしたら、人間の世界に戻る時にきちんと何か行いをしないといけない。鳥居や橋を渡るのがそうだし、境内から出たら俗世間的な行いをして体を人間の世界に馴染ませる必要がある。そんな風に考えられていたようだ。
面白いと思ったのは、精進落としというものが何も性的なものだけではないという点だ。あるお寺のブログに書かれていたのだが、有名な神社や名刹寺院には必ず名物の食べ物があるが、それは精進落としのためだと書かれている。美味しい物を食べることで、聖地から俗世に戻るのだ。京都には湯豆腐、奈良には柿の葉寿司、伊勢神宮には伊勢うどん、安芸の宮島には牡蠣、出雲大社には出雲蕎麦、善光寺には善光寺蕎麦、香川の金比羅宮には讃岐うどん、日光東照宮には湯葉等々、精進落としには美味しい物ばかりあると。
参拝の後に、参道にあるお店でビールを飲んだり焼き肉を食べるのも精進落としといえるのだろう。代参で遥々遠くから参拝に来た庶民のみんながみんな、遊郭に行ったとは考えられない。そんなお金なんて無いという人の方が多かっただろう。そうした人達は、参道の名物を食べたり芝居を見たりして、精進落としをしたのだろう。
伊勢参りの精進落としは、普段の住処から離れた見ず知らずの場所で一生に一度くらいは羽目を外してもいいじゃないか、という人間の欲望を都合よくこじつけたものだろう。それはそれとしても、精進落としや寺社への参拝から、様々なご当地の食べ物ができて、今も残っているのは興味深いものである。
お蔭参りや抜け参りについても触れておこう。宝永2年(1705年)のお蔭参りは、四月上旬から京都をはじめとした畿内の人々が抜け参りをし、約1カ月で伊勢神宮に300万人以上が来たとされている。1716年の享保の改革の頃の日本の人口が3000万人というから、さすがに誇張している感じがするのだが…。奉公人の少年たちが主人の制止を聞かず伊勢に向かい、その後大人達が抜け参りをした。ろくな旅の支度もせずに旅の行列に混ざっていく訳だが、街道筋にある裕福な家では参拝者にお金や食事をあげたり、旅に必要な物を無償で提供することがあり、野宿覚悟なら伊勢まで辿り着けることがあったようだ。四国四十八カ所巡りにみられるような接待(施し)を受けれたことも、お蔭参りの特徴である。先日名古屋や愛知のことを調べていたら、熱田ではお蔭参りが起きると「接待駕籠」を出すことが推奨されていたと、「愛知県の歴史」(山川出版)にも書かれていた。歩けない人を駕籠に乗せたり、寝床に困っている人を泊めたりすることを、進めていた藩もあったようだ。
そもそもなぜお蔭参りが起こったのかというと、神宮の札が天から降ったことから始まる。お札の降った家ではそれを神棚に祀り、近所の人達が拝みに来て、神のお蔭だ神のお蔭だと言って、返札のために参拝に出かけることから発生するのだ。お札が天から降ってくるはずもなく、御師が宗教活動として撒いたのだとか、為政者が民衆の不満をそらすために行ったのだとか、そんなことが言われている。慶応3年(1867年)に起きた大行進はお蔭参りと言わずええじゃないかと言われているが、このええじゃないかの時にもお札が天から降っている。大政奉還があり政情不安な時である。お蔭参りの特徴に豪商などが施しをしたことが挙げられるのも、何か別の思惑があったというか、人為的に民衆を扇動した意図がみられるような気もする。
そんな爆発的に起こり熱狂的に行われたお蔭参りだが、参拝してお土産やお札を持ち帰れば、咎められることがなかったようだ。施しは何か別の意図がある訳ではなく、善意で援助する人もいた。お伊勢さんに着いたら私の分までお祈りしてきてと、お賽銭を差し出す人もいた。先ほど書いたが、裕福な商家では旅に必要な品を無料で提供する人もいた。だから突発的に抜け参りする人が後を絶たなかったのだが、皆が全て無事に伊勢に辿り着けた訳ではなかった。裕福な人や善意のある人による施しは始めのうちだけで、当然全員にできるものではない。施しを受けられない人も当然いて、タダでお参りできるという話を真に受けて無銭旅行を試みた人が、途中で乞食になることもあった。
そんな人のためなのか、抜け参りの者に道中でお金を貸すシステムなんかもあったようだ。後で借りた金を返済しなければお参りした効果がなくなると言われていたらしいが、踏み倒されるリスクはなかったのだろうか。この辺も興味深い。抜け参りの割合は全体に比べて少なかったらしく、資料があるのか分からないが機会があれば知りたいものだ。伊勢参りについて書いてきたが、根本的に江戸時代はどのように旅をしたのかも、もっと知りたい。絵で描かれているように、本当に身軽に旅ができたのだろうか。途中で体調を崩したらどうしていたのだろうか。その辺りのことも本を読んで知りたいと思う。
最後に、先ほど御師が檀家にお札や伊勢のお土産を配ると書いたが、中でも人気だったのが伊勢暦だ。伊勢暦とは、御師が正月前のお札配りの時に持参する、今で言うカレンダーのことだ。明治6年まで使われていた暦は、1年の日数も月の大小も毎年一定ではなかったから、来年の暦を手に入れなければ農作業や商売に必要な1年の計画が立てられなかった。暦は貴重な物だったのだ。江戸時代は各地で暦が作られたが、伊勢暦が最も正確で印刷が美しく、一番人気だったようだ。今で言う印刷機のような物が発達しており、伊勢暦は御師が独占していたのだろう。そんなとこからも寺社というものがどんなものだったのかが、気になる。そのことに関しては、旅9日目に書きたいと思う。
参考文献
稲本 紀昭(著)・駒田 利治(著)・勝山 清次(著)・飯田 良一・上野 秀治・西川 洋(2015)『三重県の歴史』(県史24)山川出版
金森敦子(2002)『江戸庶民の旅―旅のかたち・関所と女』平凡社新書
伊藤正敏(2018)『寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民』ちくま新書
三鬼清一郎編(2015)『愛知県の歴史』(県史23)山川出版
矢野憲一(2012)『伊勢神宮めぐり歩き』ポプラ社
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