【鎌倉時代の小話】災害都市鎌倉

幕府が置かれると鎌倉は過密都市になった。御家人が住み寺院が建てられ、全国から物資が運ばれ商人や職人が集まり、承久の乱後はさらに首都として発展し人口が増えた。

鶴岡八幡宮の周辺には、将軍の屋敷や政所・門柱所・侍所などの政治機関が置かれ、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に繋がる若宮大路周辺の平地には、有力御家人の館や寺院が建てられ、海岸一帯の南の土地には商人や職人が住居を構えた。鎌倉に多数存在する山々の麓の谷には、有力御家人の屋敷や鎌倉五山をはじめとする多くの寺院が造られ、独特の景観がつくられるようになる。

後からやってきた商人や職人らは、市街地に入り込む余地がなく、都市から離れた河川の近くに住むようになる。すると洪水が起こり家が流され、水害の被害に悩むことになる。人が住む以前では洪水は肥沃な土を運んでくるものであったが、人が住むことで災害へと変わった。

河原に建てられた住居は半地下の竪穴住居(掘っ立ての家)で、間口が一間×二間ほどの家が隣接していたが、半地下にしたのは洪水対策ともいわれている。詳しいことは分からないが、半地下の方が水で流された後にまた家を組むのに都合がいいらしい。

洪水に無縁な市街地では火事が頻繁に起きた。鎌倉では火事が多く、承久2年(1220年)には1年で8回、寛喜3年(1231年)には正月だけで3回も火事が起きている。火災の多くは人為的なもので、放火と合戦による火災だった。盗賊が放火して混乱に乗じて物を盗んだり、御家人同士が戦って相手の屋敷を焼いたりと、鎌倉は物騒だった。

武士の館のある市街地の商家では、火災の対処として半地下式の倉庫が設けらえていたらしい。土をかぶせて延焼を防ぐためとされているが、その効果は現在分かっていない。先述の河原の民家が半地下だったのと比べても、半地下の建物にはなにか意味があったようだ。

火災の際には民家を壊して延焼を防ぐことが行われていて、住民のなかでは火災が起きた時の対応が身についていた。武士の間では、厩の火災防止のために猿を飼ったり、猿の骨を置く信仰があった(猿は馬の守り神として知られている)。

災害と信仰の繋がりは風害にもみられる。鎌倉では、台風やつむじ風で家屋や寺社が転倒・破損することが多く、風の神を祭る風伯(ふうはく)祭が行われるようになる。風伯祭は京都で行われていた祭りであり、本来は雷公祭とセットで「雷公風伯祭」として行われるものであった。それが鎌倉では風害のみと結びつき、独自の祭りとして定着し、関東に広がった。

人口が増えれば災害も増える。経済地として発展する場所には都市化による問題があらわれる。都市の隅には病人や老人、孤児が集まりスラム化し、死人や牛馬の骨が捨てられ、ゴミが投棄される。まだ息のある病人・孤児は「無常堂」とよばれる社会施設に送られ、罪を犯した者は収容所に送られた(囚人の食べ物を監視人が着服して餓死者が出ることもあったらしい)。

テロリストや盗賊、辻で女を捕らえる誘拐犯や人売り・人買い商人、不審な旅人などの出入りが多く、幕府は取締を強化し、ぎすぎすした都市であったともいわれている。辻で琵琶法師が平家物語を語れば追い出し、庶民が相撲などの興行をすれば解散させ、商人が露天を開けば店じまいを強要したが、頃合いを見ては庶民が営業活動を再開していた。

現在、観光名所としても有名な鎌倉の大仏は、幕府が人身売買を取り締まり、各地の人買い商人から没収した銭を寄付して造ったといわれている。大仏の近くでは叡尊や忍性が民衆のための社会事業に献身し、病院などの社会施設が建てられていた。馬の病院もあったらしい。

参考文献
石井進『中世の村を歩く』朝日選書(2000年)
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
高橋慎一朗『中世鎌倉のまちづくりー災害・交通・境界』吉川弘文館(2019年)
大貫英明・神崎彰利・福島金治・西川武臣=編『県史14 神奈川県の歴史』山川出版社(2013年)

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