京都府【旅エッセイ】明治期に造られた日本近代土木事業の金字塔 琵琶湖疏水

京都府

2022年の3月に以前やった電車日本一周の続きをした。その時、京都を通った時に蹴上インクラインと南禅寺水路閣、琵琶湖疏水記念館に立ち寄った。いずれも明治時代の偉業、琵琶湖疏水に関する場所だ。

この時は明治時代に興味があり、何か明治時代の遺構はないかと調べていたら琵琶湖疏水を知った。琵琶湖の水を京都に引き込み、その水を水力発電に利用し、その動力で産業を興すという事業だ。

当時日本最長となるトンネルを掘り、世界でもほどんど例のなかった水力発電を取り入れるというもので、お雇い外国人の力を借りなければとても実現できない難工事を、日本人の手だけでやり遂げた偉業である。

この工事の難しさや工事を進めた人の凄さは「明治期の土木事業の金字塔 琵琶湖疏水」に書いているが、技術も資材も資金もなかった明治時代中期、よくぞ成功させたものだと、琵琶湖疏水を知れば知るほど感心する。

琵琶湖疏水を詳しく知ったのは旅が終わってからだ。旅から1年も経ってからYouTubeの動画を作る時に琵琶湖疏水について調べ直したが、その時に『京都インクライン物語』を読んだ。ノンフィクションタッチの小説で、このおかけで旅で感じたいろいろな疑問がほとんど解決した。

しかし、一つだけ分からないことがあった。それは第一疏水工事が行われた明治18(1885)年~明治23(1890)年がどんな時代だったのかということだ。疏水事業に従事した工夫たちがどのような生活をし、どんな思いで工事に当たったのか。それについては分からず終いだった。

知る限りでは明治18年~23年は大変な時代だ。明治15年から松方デフレで不景気になり18年・19年は自殺者数がピークになり、19年はコレラ・天然痘・チフス・赤痢が流行り全国で14万以上の死者が出た。
※出典:色川大吉『日本の歴史21 近代国家の出発』

近代化を推し進める明治政府はとにかくお金が足りず、国民に大きな税をかけた。明治13年には地方税と酒税が増税された。税金が金納になり、松方デフレで作物の値段が下がり税金は実質増税になった。作物の生産者だけでなくそれを売る商人も増税に苦しんだ。

水道水の整備がまだされていない時代で衛生状態が悪く、明治12年、19年、23年、26年、28年と数年おきにコレラをはじめとする疫病が蔓延し、明治10年~20年代の20年間に疫病で80万人の死者が出たという。

日本の各地で身売り、自殺、病死が相次いだそんな時代に、琵琶湖疏水事業が行われた京都市ではその工費を疏水沿線の住民が請け負った。京都府の年間予算の2倍以上の額を沿線住民が負担したのだから、相当な負担だったことが容易に想像できる。

明治17年には群馬事件、加波山事件、秩父事件が起き、高利貸や警察署、役所の襲撃が起きた。こういった暴動は、近年では自由民権運動への活動というよりも、日々の暮らしの困窮が招いたものとの見方が強くなっている。

そうした時代だった訳だが、琵琶湖疏水には工期中に暴動やストが起きたことが調べた限りでは一切出てこなかった。

そこで一つ、公共事業の側面が大きかったのではないかという疑問が出てきた。不景気だからこそ、日給や弁当の支給が有難かったのではないか。琵琶湖疏水事業には延べ400万人が従事したという(1日の作業員は5千人が最高だったらしい)。

またトンネルに使う大量の煉瓦を賄うために工事現場の近くに工場を造りそこで生産したのも、雇用の確保と地産地消による経済循環の作用が感じられる。瓦職人を招いて煉瓦を造ったというから、技術の伝達もあったと考えられる。

当時の土木工事は竪坑やトンネル工事、蒸気ポンプや掘削機、ダイナマイトの使用など、最新技術の使用を試みたことからも、技術の習得や向上がみられたと想像できる。

『京都インクライン物語』には疏水事業の工費を負担する住民の反発を和らげるために、次にようなことが行われたことが描かれている。

起工式の日に八坂神社の近で様々な興業が打たれ展覧会が開かれ、第一トンネル完成後3日間は滋賀県民と京都府民が自由に通り抜けをし、水路が完成した通水式後一週間は市民に無料の疏水下り提供され6万戸の家庭に乗車券が贈られた。

琵琶湖疏水事業は確かに重い工費を住民に負担させるものだったが、技術の習得、産業の発展、工業化に寄与した面も多大なものがあったのではなかろうか。公共事業やお祭り、経済政策としての施策がなされたことは京都府知事の北垣国通のおかげではなかろうか。だとしたら、彼の評価はもっとあってもいいのではなかろうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました