東海道五十三次の53番目の宿場町大津は、江戸時代、東海道最大の宿場だった。
東国や北陸から京都に向かう物資が集まる大津は、琵琶湖水運の港町として、また東海道の宿場町として、そして三井寺の門前町として賑わった。
東海道の宿場町で人口が一番多く、東海道一の繁栄を極めたという。
そんな大津のお土産の一つに大津絵がある。
独特の色合いと個性的なキャラクターが特徴の、風刺や教訓を含んだ護符で、
旅人に人気だった。
道歌(どうか)という道徳的・教訓的な短歌がキャラクターの周りに書かれているものもあった。
大津絵は注文を受けてから描くようで、客を待たせずに手早く仕上げれるように、型紙摺りなどの様々な技法を組み合わせて描かれた。
体のパーツを刷毛(はけ)で一気に塗る、
顔などの細かな描写をスタンプで済ます、
コンパスで描く、
と労力と時間を省き、熟練の絵師でなくても描けるように工夫されていた。
色が5~6色と少ないのもそうした理由からなのだ。
と、三井寺の近くにある大津市歴史博物館で、大津絵について広く知ることができる。
この大津絵の変遷が面白い。
東海道の名物土産と評判の大津絵はいつの時代も人気だった訳ではない。
明治時代になると人気に陰りが出始め、鉄道が敷設されると東海道を旅する人が減り、売れなくなった。
しかし、そのまま衰退しなかった。
江戸時代に小さくて気軽に買える大津絵の人形も売られていたが、
大正~昭和時代は金箔の塗られた、窯で焼いた焼き物が売られた。
立派な木箱に入れた高級品志向として販売されたのだ。
また、大正~昭和時代には、又平人形という、角張った人形が売られた。
当時でも珍しくパリの工芸展に出品されたらしい。
ミシン鋸というもので四角くカットして彩色した、大津人形の一種の進化系と捉えることができよう。
そして昭和30年には首人形が考案された(上の写真の左上)。
販売期間は10年だったが、一時は工場を建てて製作するほどの人気だったようだ。
大正~昭和時代では土鈴も売られた。
鈴の裏にはキャラクターの名前とご利益が書かれた紙が貼ってある。
そしてお菓子も。
一般的に大津絵は明治の近代以降は衰退したとされているが、その時々で面白い派生品が登場し、人気だったことが大津市歴史博物館の展示で分かった。
他にも売れなかったから消えたが、別のタイプの大津絵の土産もあったのだろう。
漫画などのキャラクターが人形やお菓子として売られることは現代もある。
そんな今との共通項が面白い。
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