【滋賀県】三井寺が比叡山と長年抗争を続けたわけ

滋賀県

日本史の本を読んでいるとたまに登場する三井寺。天台宗の一派、天台寺門宗の総本山で、正しくは長等山園城寺と言う。

比叡山延暦寺での派閥争いに負けた僧たちが下山して、天台寺門宗を興し独立したので、延暦寺とは仲が悪く、度々焼討を受けた。
延暦寺との抗争は山門寺門の争いという言葉で知られている。
(山門は延暦寺、寺門は園城寺)

旅をするまでは三井寺がなぜ延暦寺の攻撃を受けても滅ばず、存続できたのか疑問だった。

比叡山の焼き討ちは凄まじい。
室町時代に親鸞率いる浄土真宗の琵琶湖の本拠地、堅田を焼き討ちした際は、壊滅させ、親鸞は北陸に逃げざるを得なかった。

その際に親鸞が発したとされる、
恐ろしき山かな
が、延暦寺の力を物語っている。

三井寺も同様に延暦寺の攻撃を受けている。
にもかかわらず、屈することなく、その度に再興している。

旅をして三井寺が、古くから東大寺・興福寺・延暦寺と並び日本四箇大寺(しかだいじ)に数えられ、大きな力を持っていたことを知った。
三井寺にそれほどの力があったのは、時の権力者に保護され、経済基盤を持っていたからだった。

平安時代後期は藤原道長とその子頼通の庇護を受け荘園が寄進され、
鎌倉時代は源頼朝に保護され、
室町時代は足利尊氏に庇護され、逢坂の関を支配し関銭を徴収し莫大な利益を得た。

全国の寄進された荘園に加えて、大津の逢坂の関という物流の要衝も押さえていたことからは、いかに幕府が三井寺を厚遇し、三井寺の力が大きかったのかが分かる。

東海道の横木町の辺りも、かつては三井寺の領地だった。三井寺の寺領は、如意ヶ嶽から鹿ケ谷、山科に及ぶほど広大なものだったという。
今谷明『近江から日本史を読み直す』より

三井寺が権力者に保護され経済基盤を持てたのは、政治に利用されたからだった。
延暦寺の強すぎる力を牽制するために、時の権力者が三井寺に肩入れした。

山門寺門の争いは時の権力者の代理戦争でもあり、藤原道長は朝廷の一部の勢力を抑えるために、鎌倉幕府や室町幕府は朝廷そのものを抑えるために延暦寺と距離を置き三井寺を保護した。

延暦寺の天台宗と三井寺の天台寺門宗とには、仏教の教義上の大きな違いはないという。
どちらが正しい仏の教えなのかを巡る争いではなく、利権や政治、権力を巡る争いが両派の間で繰り返された。

三井寺は戦乱に巻き込まれることもあり、源平の争乱では源氏に味方したため平家の攻撃を受け、南北朝の動乱の際には南朝から攻撃を受け、境内が焼かれた。

三井寺はいつと延暦寺と敵対していたかと言えばそうではなく、室町時代に三井寺と南禅寺が争った南禅寺楼門事件では、延暦寺が三井寺に味方した。

幕府は禅宗にも肩入れし朝廷に牽制し、同時に三井寺も牽制しようとした。当時、南禅寺は勢いがあり、それに危機感を覚えた延暦寺が、不仲の三井寺と協力し禅宗の台頭を抑え込んだ。

このことからも当時の寺社勢力の抗争は利権を争うもので、戦国武将のように敵味方がその時々で変わったことが分かる。

そんな寺社の一面を旅をして知ることができた。

境内の様子を知りたい方は旅ブログの記事をどうぞ↓

【滋賀】三井寺(園城寺)の歴史(電車日本一周補完の旅8日目①) | 綴る旅 (tsuzuritabi.com)

参考文献

今谷明『近江から日本史を読み直す』講談社現代新書(2007年)

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