電車日本一周補完の旅4日目 興福寺

奈良県

さて、春日大社を参拝した後は興福寺に向かいます。

(興福寺はYouTubeでも紹介しています(簡単な説明は【散策動画】で、詳しい説明は【音声解説動画】で紹介しています)。よろしければ↓

奈良公園エリアの散策動画をアップしました | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)

春日大社と興福寺の音声解説動画をアップしました | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)

スポンサーリンク

中世門前が栄えた興福寺

さて、春日大社を参拝した後は興福寺を参拝してみましょう。中世まで大和国を支配した興福寺は絶大な力を持った寺社でしたが、この広い奈良公園もその多くが明治時代になるまでは興福寺の境内でした。奈良国立博物館の敷地も元々は興福寺領で、実際に歩くとその広さを痛感します。

都が平城京から長岡京・平安京へと遷都してから、奈良は首都から取り残されて廃れたと思っていましたが、それは平城京であって、興福寺の門前は中世、京都に次いで栄えました。京都のように酒屋や土倉が多く、商人や手工業者(しゅこうぎょうしゃ)の賑わう商工業の都市として発展し、また農産物などを加工する様々な座が大和盆地一帯に広がり奈良は商品生産地として栄えました。京都よりも僧侶が金融や食料・日常品・武具などの生産を手掛けることが多かったのが特徴とも言われています。
土倉:鎌倉・室町時代の金融業者。質屋のように物品を担保として高利の金貸しをした。酒屋を営む土倉もいた。室町時代、奈良には200ヵ所の土倉があった(『下剋上の時代』より)
※油座・麹座・塩座・雑紙座・材木座・簾座・菰座・鍋座などが南の桜井から北の木津まで南北にわたり広範囲にあった。
酒蔵:貴族や寺院が荘園領主だった時代、荘園領主の元には諸国の年貢米が集まり、その一部が酒米とされた。そのため、荘園領主の集まる京と奈良には酒蔵が多かった。

興福寺の創建

いつの間にか興福寺の境内に入りました。興福寺には柵や塀といった外部との仕切りがありません

興福寺の創建については散策動画で紹介したので省略しますが、藤原不比等が飛鳥にあった寺院を現在の地に移し、興福寺と名付けました。
※669年に藤原鎌足の妻が夫の病気の回復を祈り京の山科に建て、藤原京の遷都にともない飛鳥に移り、その後710年の平城京遷都にともない現在の地に移された。
669年:山階寺建立→672年:厩坂寺(うまやさかでら)→710年:興福寺

藤原不比等は大化改新で活躍した中臣鎌足の子で、大宝律令を施行し法治国家を整備し、平城京を造営し、貨幣制度を整備した人物です。不比等は東大寺の大仏殿を造った聖武天皇の祖父にあたり、不比等の4人の息子は藤原四家(ししけ)を興しました。
※藤原四家:南家・北家・式家・京家。後に北家が隆興する。

藤原氏の権力基盤を築いた不比等がこの地に造った興福寺は、摂関家や藤原北家との関係が深く、手厚く保護され、平安時代には春日社の実権を手中におさめ大和国を支配し中世まで絶大な力を持ちました。

YouTubeではお伝えできなかった内容です。
平安時代末期に関白藤原師実(もろざね)の子である覚信が入信し、一乗院門跡が成立し、覚信が興福寺の別当となり、その後大僧正になります。南都の僧が大僧正になるのは行基以来のことで、さらに大乗院門跡にも師実の子の尋覚(じんかく)が入信し興福寺の別当となり、二大門跡が宮中と興福寺を深く繋ぎました。そうした朝廷とのコネがあったため、興福寺は強い権力を得ることができたのでした。

興福寺は藤原氏の繁栄とともに寺領を拡大し、最盛期は堂塔伽藍が百数十棟、僧侶が4000人にものぼったといわれています。興福寺は南都六宗で一番栄えた法相宗の大本山ですが、興福寺が法相宗だったから法相宗が南都六宗で一番栄えたのかもしれません。

興福寺の建物の見どころ

五重塔

興福寺の五重塔は高さが50.1メートルあり奈良で一番高く、全国で京都の東寺に次いで二番目に高く、古都奈良を象徴する塔として知られています。天平2年(730年)に不比等の娘である光明皇后の発願(ほつがん)で建立された後、5回の焼失・再建を経て、応永33年(1426)頃に再建されたものが現在残っています。
※光明皇后:聖武天皇の皇后

三手先斗栱(みてさきときょう)と呼ばれる組物には奈良時代の特徴が残されており、また豪快さがあり中世の特徴も感じられます。

比叡山延暦寺と並び強力な権力を持った興福寺は、自らの力を維持するために度々春日大社の神木をかざして強訴しましたが、そうした行動が平家の南都焼討を招く結果となりました。
※神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだ。
南都焼き討ちでは全山焼亡に等しいまでに延焼したといわれている

しかし南都焼討で伽藍が焼かれても、直ぐに復興させるだけの力があり、また以後、火災などで堂宇が焼失する度に復興させました。
(復興といっても堂宇の再建は、所有する荘園などから臨時に税を取ったり、皇族・貴族からの支援を受けて建てたのですが。)

鎌倉幕府も室町幕府も大和国には守護を置くことができず、強訴は室町時代の後期まで続き、興福寺は中世の終わりまで大和国を実行支配しました。

旅をした2022年の3月はまだ五重塔を観れましたが、2024年頃でしょうか、約120年振りに五重塔の修理が始められるとのことなので、以後数年の間は五重塔を観ることができなくなりそうです。
※令和5年(2023年)1月からの予定だったが、資材の高騰などにより1年延期となる。改修工事が終わるのは2030年以降と思われる

YouTubeではお伝えできなかった内容です。
法隆寺の五重塔でもお伝えしましたが、日本の五重塔は軒が深いのが特徴です。軒を深くするのは中国大陸にはない建築方法で、雨の多い日本で、建物を守るために考え出された日本独特のものです。

強訴
興福寺の強訴は、まず訴訟の宣言として神木を本殿から移殿へ移し(御遷座というらしい)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だったようです(Wikipediaを参照)。宇治は貴族の別荘があった場所です。

伊勢神宮でも禰宜以下の神人が祭主などを無視して直接京都に訴え出ることが10世紀以降しばしば行われたそうで、これも強訴・越訴の一種であるとWikipediaには書かれていました(確か強訴の項目で)。

東金堂

新型コロナウイルスの感染拡大防止策のため、他のお堂は拝観できませんでしたが、五重塔の隣にある東金堂には入ることができました。5度の兵火や火災で焼失しては再建が繰り返され、現在の建物は室町時代の応永22年(1415)に再建されたものです。
※応永年間:1394年~1428年までの期間。足利義満が金閣寺を造り、明との勘合貿易をし、没し、義持が将軍となった時期。

前面を吹き放しとした寄棟造で、組物が前に三段せり出している三手先斗栱(みてさきときょう)が多用されているのが特徴です。創建当初の奈良時代の雰囲気を色濃く残しています。

堂内には室町時代に造られた御本尊の薬師如来坐像を中心に、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)立像、十二神将立像、維摩居士(ゆいまこじ)坐像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)坐像、四天王立像が安置されています。

国宝館

そして東金堂の隣には国宝館があり、こちらでは有名な阿修羅像を観ることができました。興福寺の宝物は明治時代の廃仏毀釈で多くが流失してしまいましたが、それでも今日素晴らしい像が多く残されており、目にすることができます。

国宝館で観れる像は奇跡的に残った大変貴重な像です。興福寺の宝物は廃仏毀釈で海外に流失したものが少なくありません。そして何と言っても、現在残っている像は、幾度もの火災を免れてきた像です。

奈良時代に造られた八部衆像や十大弟子像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)といい、中が空洞になっています。そのため比較的軽く、火災の度に僧侶たちが抱きかかえてお堂から運び出し、焼失を免れてきた像なのです。

炎が近づいてくる中、或いは燃えさかる火の中から、何人もの僧たちが幾度となく必死で救出した像を、目の前で観ることができると思うと、感慨深いものがありました。

中金堂

境内の東側から西の方に向かうと、中金堂があります。普通、寺院の中心的な建物である金堂は一つなのですが、興福寺には東金堂と中金堂の二つの金堂があります。後で知ったのですが、興福寺の最盛期には西金堂(さいこんどう)もあり、なんと境内に三つの金堂があり、また五つの塔があったのだそうです。他の寺院と比べていかに力があったのかが分かります。

※西金堂の跡地には基壇・礎石が残されている。
有名な阿修羅像は八部衆像の一体として、西金堂に祀られていた。

中金堂は興福寺で一番観たかったのですが、残念ながら柵があり近づけませんでした。創建より6回の焼失・再建を繰り返し2018年(平成30年)に再建された建物です。中金堂は興福寺の伽藍の中でも最も重要な建物でしたが、江戸時代の享保2年(1717)に焼失した後は、財政的な問題により再建が進まず、百年後に仮のお堂が造られましたが、2000年(平成12年)に解体され、2018年に再建されました。

中世に大きな力を持った興福寺も、江戸時代になるとその勢いはなくなり、かつてのように焼失する度に堂宇を復興させるだけの経済力はありませんでした。江戸時代になると他の寺院と比べて破格とも言える2万石余りの寺領が認められましたが、奈良奉行が置かれ幕府の監視を受けるようになり、また幕府の財政悪化により伽藍の復興資金を多く得られなくなり、仮にお堂を造るにとどまりました。

個人的にはカメルーン産のケヤキが使われていることに興味があったのですが、動画の尺が足りないので、そちらの内容はブログに譲ります。

YouTubeではお伝えできなかった内容です。
興福寺の中金堂は再建の際にカメルーン産のケヤキが使われています。寺院などの瓦を支える木は国産の檜が適していますが、残念ながら現在国内に使える檜はありません。平城宮の朱雀門と第一次大極殿の再建で建物に使える国産の檜は使い果たしてしまったからです。

(貴重な国産の檜を使うほど、平城宮の復元は価値があるとされたとも言えるので、機会があれば是非とも平城宮跡も観ることをおすすめします)

以前であれば日本と気候の近い台湾の檜を使っていたのですが、平成3年(1991年)よりより輸出が禁止されてしまいました。そうした状況で、現在はカナダやアフリカから木材を輸入して使っています。檜はありませんから別の木となるのですが、熟考の末にカメルーンのケヤキを使うことが決められました。

本当は、奈良時代の様式を伝えるためには 36本の直径が約80cm×10mの木が必要で、このサイズの柱を得るには直径1.5m×20mの檜の原木が必要だったようです。

カメルーンのケヤキを買うにしろ、一気に買うと原木が高騰するので、7年かけて二つの会社で少しずつ買ったのだそうです。カメルーンでは原木の輸出が既に禁止されていましたが、禁止になる前に伐採された原木は輸入できたため、辛うじて手に入れました。

ついでに、江戸時代に中金堂が焼失した際、財政難で再建できず、焼失してからおよそ100年経過した文政2年(1819)に町屋の寄進により規模を小さくして仮堂がた建てられました。あくまで仮設としての建立で長期使用を想定しておらず、材木に不向きなマツが使われたため、急速に老朽化が進み平成に解体されました。

興福寺は明治時代になると神仏分離令により大打撃を受け、寺院としての体をなさないほど荒廃してしまいました。興福寺の僧は春日大社の神職になることを強要され、多くの寺領が没収され、興福寺を囲む塀が壊されました。

興福寺が明治時代の神仏分離令でこれほどの大打撃を受けたのは、華族というのでしょうか、明治政府で働く身分の高い者の親類や関係者が興福寺に多かったため、興福寺はいち早く明治政府の方針に従う必要があったからといいます。
※華族:明治政府が設けた公家や武家に代わる貴族階級

YouTubeでは紹介できなかった内容です。
明治政府により没収された寺の境内の大部分は奈良公園にされましたが、当時は寺社境内の公園利用が広く全国で推進されました。上野恩賜公園は元は寛永寺の境内敷地ですし、京都の丸山公園は長楽寺・八坂神社を初めとした寺神社の境内の一部を召し上げて造成されました。

公園化に伴い(明治13年、1880年)、境内に次々に植樹がなされ、寺域と俗世間とを遮断していた築地塀(大垣)も取り壊され、公園の中にあるお寺という様相になってしまいました。明治22年には東大寺や氷室神社などの境内も奈良公園に編入され、その規模が更に拡大したのだそうです。
 
『蘇る天平の夢 興福寺中金堂再建まで。25年の歩み』では、昭和30年(1955)以降、興福寺に花見にやってきた人が連日宴会をして、折詰弁当の箱、新聞紙、酒瓶をほっかたらかしにして帰り、それを鹿が漁り、ゴミが散乱して悪臭が漂うといったことが行われ、「あの頃の日本人は本当にマナーが悪かった」と、子供の頃にその光景を目に焼きつけた著者は書いています。

塀や壁などの外部との仕切りがない興福寺

北円堂

中金堂の西には北円堂があります。日本に現存する八角円堂のうち最も美しいと賞賛されている建物なのですが、こちらも近づけませんでした。北円堂は興福寺の創建者である藤原不比等を弔うために建てたお堂で、現在の建物は承元( じょうげん )4年(1210年)頃に再建された興福寺最古の建物です。

興福寺の境内の西の端に建てられていますが、ここはかつて平城京を一望できる一等地でした。興福寺から西を見れば平城京の中心が見渡せ、また平城京の中心部からは、春日山を背景に興福寺の堂塔がひときわ目を引いたといいます。

奈良時代、北円堂から西(画像の奥)を見渡せば平城京が見えたという

南円堂

その南には南円堂があります。藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父親の内麻呂(うちまろ)の追善のために建立したお堂で、現在の建物はこれまで4度再建されたもので、江戸時代の寛政元年(1789)に再建されたものです。
※藤原内麻呂:藤原四家でもっとも栄えた北家の祖

三重塔

そして更に南に進むと三重塔があります。治承4年(1180年)の南都焼討で焼失してから間もなく再建されたもので、北円堂と共に興福寺で最古の建物で、平安時代の建築様式を伝えています。木割が細く、軽やかで、優美な線を醸し出している平安時代らしさのある塔ですが、創建時の奈良時代の雰囲気も残しています。

消失の度に再建されてきた興福寺の建物は、再建の際に天平への回帰が固く守られならがも、以前よりも少し豪華にし、また、その時代の流行を取り入れながら復興させてきたのだそうです。前回の音声解説動画でご紹介した東大寺の南大門と比べると、その違いが一目見て分かります。南大門は資金難や資材の調達に苦労し、大仏様というコスパ重視の華やかさを極力排除した造りになっていますが、同じ時代に造られた興福寺の三重塔は、華やかさや優美さが全面的に押し出されていると言えます。

中世の寺社勢力

興福寺の境内から見える猿沢池

これは余談ですが、興福寺は剣術の柳生新陰流とともに奈良を発祥地とする宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅう そうじゅつ)が生まれた場所としても知られています。戦国時代から江戸時代に活躍した興福寺の胤栄が、猿沢池に浮かぶ三日月を突き、十文字鎌槍(かまやり)を創始したことが伝えられています。
※宝蔵院流槍術:十字の刃を使う槍術で、当時は画期的で全国に普及したらしい

モノづくりや建築で最先端の技術を持っていた中世の寺社勢力は、弓矢の製作や鉄砲の生産、築城など軍需産業でもリードしており、また戦闘技術や武術を発展させた一面ももっています。宝蔵院の槍術も、そんな寺社勢力の一面が伺える話なのではないかと思います。

さて、今回は春日大社と興福寺の見どころと歴史をご紹介しましたが、急ぎ足で参拝したのでゆっくり観れませんでした(その前に東大寺に参拝し、東大寺ミュージアムと奈良国立博物館の展示を観ていたら、あっという間に時間が過ぎてしまいました)。

コロナウイルスの感染拡大防止策のために、中金堂と北円堂を間近で観ることができなかったのも残念でした。またいつか興福寺を参拝して、ゆっくり境内を観て回り、また皆さんにご紹介できればと思います。

ここまでご覧いただきありがとうございました。
次回は奈良の世界遺産・元興寺の見どころと歴史を紹介します。

参考文献

廣澤隆之監修『日本の古寺101選』成美堂出版(2017)

多川俊映『蘇る天平の夢 興福寺中金堂再建まで。25年の歩み』集英社インターナショナル(2018)

他、後日書きます

ランキングに参加しています。内容が面白かったらクリックお願いします。
PVアクセスランキング にほんブログ村
ランキングに参加しています。内容面白かったらクリックお願いします。
PVアクセスランキング にほんブログ村
散策記奈良県
スポンサーリンク
しききままをフォローする
見知らぬ暮らしの一齣を

コメント

タイトルとURLをコピーしました