【散策記】電車日本一周補完の旅3日目⑤世界遺産平城宮跡

奈良県
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平城宮跡へ

唐招提寺を参拝した後は、平城宮跡に向かいます。歩いて30分かかります。

今歩いているこの場所は、8世紀、710年(和銅3)に藤原京から遷都してきてから784年(延暦3)長岡京に遷都するまでの74年間、途中、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(740)の後の5年間ほどは難波宮を都としたため空白期間がありますが、都があった場所です。

※藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(740)の後の5年間ほどは難波宮を都としたため空白期間がある

この辺りは朱雀門に近いので、奈良時代はお寺の境内だったり中級役人が住んでいた土地と思われます。

平城京は10万人住める敷地があったようですが、実際住んでいた人は5万~6万人ではないかといわれています。平城京の住民の中でも多くの割合を占める下級官人は、その多くが単身赴任であり、空き家が結構あったようです。

役所に勤める上級官人は、平城宮に近い所に土地をもらいましたが、中級、下級になるにしたがって南の離れた場所に土地をもらい、平城京の入口である羅生門の近くに住んでいた人は5km以上離れた場所から毎日1時間以上歩いて出勤しました。羅生門は、薬師寺に向かう途中、車窓から見えた郡山城の近くにありました。

中級・下級官人が勤める役所は70を超えたようで、都の朝は早く、日勤なら早朝から働きました。

中級役人であればそれなりに給料がもらえ、休みは6日毎に1日あり、農繫期には休暇も認められていました。60~70坪(約198㎡~231㎡)、多ければ150坪の土地が貸与され、その土地に家を建て、井戸を設け、畑を作り、自分が食べるものを育てていたようです。

下級官人や非正規となると、休みがなく連日働き、椅子ではなく地べたに敷物をしいて働きました。労働環境が悪く腹痛や足の痺れなど体調不良を訴え休む者も多かったといいます。非正規のバイトである下級官人の生活は苦しかったようで、給与を前借しながら生活を繋げ、利子は一ヶ月三割と高く、かなり厳しい生活を送っていたようです。バイトで多かったのが、写経という、いわゆる経典を書き写す仕事だったようです。

世界遺産平城宮跡

さて、平城宮跡にやってきました。正確には平城宮跡歴史公園といいます。

遣唐使船

入口の朱雀門が見えますが、その前に近くにある復元された遣唐使船を観に行きます。

平城宮跡は資料館を含め無料の施設です。

遣唐使の目的は、唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報収集と文化の吸収といわれています。遣唐使船がどのような船だったのかははっきりとは分かっていませんが、150人が乗れるこれくらいの大きさだったと推測されています。

遣唐使の航海が危険だったことはよく知られていますが、網代という竹や葦を編んだもので風を受け、風任せの航海をし、行って戻ってこれる確率はよくて4分の1といわれていました。4隻で出航してそのうち半分の2隻が唐に着き、唐から帰って来る際は2隻のうち1隻でも帰ってこれればよいというものでした。

しかし、解説にあるように、実際は18隻のうち14隻は無事に戻ってきたので、それほど危険ではなかったのかもしれません。とはいえ、風向きが変わればすぐに流されてしまい、知らない土地に漂着し、原住民に殺されたり熱病で死んでしまうことがあり、また嵐に遭遇すれば浸水し高波で船体が真っ二つに折れてしまうこともあり、命を懸けた航海だったことには変わりはなかったでしょう。

国の代表として相応しい知識と振る舞いと、そして油ののった働き盛りの優秀な人たちが遣唐使に任命されましたが、中には命を落とし、生きていれば歴史に名を残したであろう人もいたのではないかと思われます。

遣唐使船の近くにあり、レストランやカフェのある天平うまし館には、遣唐使船を解説したコーナーがあります。

スタッフの方から、中国から寄贈された鑑真像を是非見ていってくれと声を掛けてもえいました。中国に残っている文献から鑑真の容姿を想像して造ったものですが、晩年の姿をした日本の鑑真像とは違い、壮年の姿をしているのが特徴です。

さて、朱雀門を観に行きます。

朱雀門

朱雀門は平成10年(1998年)に復元された建物ですが、再建の際に直径70cmの柱18本をはじめ、吉野檜や木曾檜が使われました。国産の貴重な檜を使った訳ですが、その後、これから向かう第一次太極殿の再建で柱として使えるような国産のヒノキはほぼ使い終わったしまったといいます。

貴重な檜を使うくらい、平城宮跡は価値があるということです。平城宮は、現在までに50年以上も発掘調査が行われていますが、調査を終えたのは全域の約3分の1なのだそうです。これほどの広い面積が発掘された都は、日本はもとよりアジア全体を見渡しても他に例がなく、その規模と発掘の成果と地下遺構がよく残っていることが平城京の価値と言われています。

平城宮跡には線路があり電車が走っています。

世界遺産の敷地内に電車が走るのも平城宮跡の面白いところです。

平城京遷都の理由

藤原京から平城京に遷都した理由は、飢饉や疫病から逃れるため、交通の便を良くするため、藤原不比等が旧勢力から離れて政治をしたかったといった理由もありましたが、藤原京の造りが唐の都長安と大きく違ったという理由もあったようです。

31年振りに再開された遣唐使で、粟田真人(あわたのまひと)ご長安に行ってみると、唐を見倣って造ったはずの藤原京は、最新の長安の都と大きく異なっていました。藤原京は宮殿が都の中央にありましたが、長安は北端にありました。天子南面や四神相応の考えに基づいて都が造られており、国の制度も様式も唐を見習って力をつけようとしていた日本にとっては、間違った都の造りは看過できるものではなかったようです。

※四神相応:東に川があり(青龍)、西に道があり(白虎)、南に池があり(朱雀)、北に山があれば(玄武)、四神を漏れなく巡らした最良の地となるという中国の思想である。この配置なら政治がうまくいくというもの。

高い理想に燃えた奈良時代

そして藤原京から平城京へ遷都した大きな理由は、新しい都で701年(大宝元年)に施行された大宝律令を定着させる目的もあったようです。唐を見倣い、日本が一人前の国家と認められるために施行された大宝律令という国家の一大プロジェクトを推進するために、膨大な文書作成を伴う業務を円滑に進めるために平城京は造られたとさえいわれています。

平城京は皇族・貴族が優雅な暮らしをするために造った都ではなく、実務をこなすために造られた都で、長安と違い敷地に酒場がありませんでした。

個人的に奈良時代初期の面白いと思うところが、貴族が実務をこなしたところです。平城京の造営や大仏の建立に必要な労働者の数を貴族自らが割り出し、現場に立ち人を使い、地方に赴任した時は異国の地で農業指導を行ったといいます。貴族は農業に詳しく、日頃から自分の田畑で農作物を作り、その妻も農業に従事していたといいます。

強大な唐という国に追いつこうという高い理想に燃えていたのと同時に、国を滅ぼされないようにとの危機感を、奈良時代初期の貴族や官僚は持っていました。農業指導と行い、溜池や堤防を築いて灌漑を広め、農地を拡大させ、安定した水稲耕作を可能にした役人がいたことが記録に残っていますが、中国の書物を読み、最先端の技術を取り入れて税収を増やすことで国力を高めようととした気概が感じられます。

国司といえば悪いイメージがつきものですが、大宝律令が施行された当初の国司の仕事量は凄まじく、毎年、高度な計算を必要とする徴税に関する帳簿を4種類作り、それを証明する60種類以上の付属文書を作成せねばならず、激務だったいいます。

国司を支えた郡司などの役職もしかり、国司が提出した文書をチェックする平城京にいた役人もしかり、膨大な文書と向き合う大変な仕事で体を壊す者が少なくなかったようです。

そんなことは現状にそぐわないとなり、次第に細かい文書作成は形骸化していきますが、大宝律令が施行された当初は多くの役人たちが新しい国家プロジェクトに携わったのでした。

そんなことを本で知ったら、奈良時代も面白いものだと思えるようになりました。7年前に電車日本一周をした時は、平城宮跡は広いだけの、名ばかりの世界遺産だと思い、立ち寄りませんでしたが、この地の遺構の価値や、この地でかつてどのようなことが行われていたのか知ると、このだだっ広い土地を、ただただ歩いているだけでも面白いものです。

遠くに見える南門の手前のこの辺りの右や左には、役所があったようです。

大極殿の前には復元工事中の南門があります。

その右にはこれから東楼を復元するようで、おそらくその後、南門の左に西楼でしょうか、もう一つ建物を復元するのだと思います。当時は南門から大極殿を囲む回廊があったようで、今後回廊も造られるのではないかと思います。

復元事業情報館

大極殿の近くには、復元事業情報館という資料館があります。第一次大極殿の復原工事の取組みや目的を分かり易く紹介した施設です。

宮大工の仕事や瓦の載せ方、鴟尾(しび)の造り方などの展示もあります。

こういうのを知っていると古くからある有名な寺院建築も楽しめるので、非常にためになります(時間がなくてゆっくり観れず写真だけ撮り後日見ましたが…)。

金色の錺金具(かざりかなぐ)は装飾だけでなく、腐りやすい木の切り口を雨や風から守る役割もあるのですね。勉強になります。

平城宮跡資料館

復元事業情報館から更に離れた所には、平城宮跡資料館があり、当時の宮殿や役所、皇族の暮らしや役人の仕事ぶりを分かりやすく解説した見どころのある資料館でした。

入口に入るとまず平城京から長岡京への遷都の様子を再現したジオラマがあります。

平城京に遷都する光景ならまだしも、平城京からよその土地に移転する際の様子を再現しているのが面白いです。

瓦や柱の撤収の様子を再現しています。

平城京の敷地。右京の左の真ん中が先ほど参拝した唐招提寺と薬師寺があり、そのずっと東に行くと東大寺や興福寺があり、南に下ると平城京の入口の羅生門があります。羅生門の西には郡山城があり、郡山から電車に乗ってきたので、平城京がいかに広かったのかよく分かります。

その隣には官衙復元コーナーがあり、平城宮内にあった役所の様子を再現したブースがあります。

これから向かう第一次大極殿の模型

役人の仕事の様子

下級官人や非正規労働者は土間に敷物を敷いて仕事をしましたが、さすがに中級・上級の役人となれば椅子に座って業務にあたりました。

当時の官人(役人)が使っていた道具。墨や水差しも興味深いですが、現在と大きく違いのは、木に書いた文字を消す際に刃物(刀子・とうすという小刀)で削ったことです。

墨の水差しやベルトのようなものの展示もあります。

海老錠という当時の鍵

宮廷の警護にあたった隼人が使用していた弓と縦。この模様もよく目にします。

宮殿復元コーナー

天皇が暮らしていた宮殿の4つの部屋を再現しています。寝室・書斎・居間・食卓の4つの部屋を観れます。

食事は机のような台に載せず、盆にのせて床の近くに置いていました。

マネキンからは当時の髪型や化粧、沓(くつ)、そして色彩を知ることができます。

そして遺物展示コーナーでは、平城宮・京で出土した多様な遺物を見ることができます。「都のくらし」「まじない」「国際交流」の3つのコーナーに分かれており、食器や箸、窯などの食器や人面墨書土器や人形(ひとがた)などの呪(まじな)いの道具、輸入した陶磁器などが展示されています。

奈良時代の多くを教えてくれる木簡の展示も充実しています。

百万塔の展示は珍しいのではないでしょうか。詳しくて見ごたえがあります。

奈良時代の鋤

陶器

平安時代には消えてしまった奈良三彩

瓦の説明

土馬

疫病が流行ると疫病神を土で作った馬に乗せて家から離れた場所に置いたようです。疫病退散の呪(まじな)いです。

人形(ひとがた)

人面墨書土器

これも疫病退散の呪(まじな)いで、川に流して病から身を守ろうとしたものとされています。

えなつぼ(胞衣壺)

子供の成長を願う呪(まじな)いですが、江戸時代まで続いたといわれています。えなつぼについては、こちらに書いています。

【小話】奈良時代 子供の成長を願う平城京の呪い(まじない) 胞衣壺 | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)

休憩所

休憩所の隣には企画展示室と考古化学・模型展示コーナーがあります。企画展示だったか忘れましたが、「かりうち」という奈良時代のゲームの展示がありました。

考古学を科学的に解説した展示も見ごたえがたくさんあります。

たった2cmの骨から魚の種類・骨の部位・大きさ・痕跡が分かるというのです。

金属遺物をどのように保存するのかの展示

年輪の解説

X線

模型展示コーナーでは、唐招提寺の講堂の展示も見ることができます。

駆け足でしたが見ごたえのある資料館でした。ゆっくりみていたら平城宮跡は1日かかりそうです。

第一次大極殿

さて、第一次大極殿に向かいます。

そしてこちらが第一次太極殿(だいいちじだいごくでん)です。天皇の即位式や外国使節との面会といった国の重要な儀式が行われた場所です。奈良時代は740年から5年間都が各地に移されたので、それまでの前期に使われていたこちらを第一次大極殿と呼び、後期に使われたものを第二次大極殿と呼んで区別しています。第二次大極殿はここから通りを挟んだ東に基壇のみがあります。

※710年に遷都された平城京は、740~745年の5年間、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮、平城京へと都が移った。

屋根の黄金の鴟尾と瓦と、朱色の柱と白壁と緑色の格子が奈良時代の色合いを表していて綺麗です。奈良時代はまだ平安時代のような中間色を使った色がなく、色の幅が狭く原色の濃さしかないのですが、これも奈良時代の良さに思えます。

遣唐使が送られていた唐の都・長安は北が高く南が低い地形になっていて、宮殿は15mも高くなっていたといわれていますが、平城京もそれを取り入れ、宮殿が3m高くなっていたという話もあります。

大極殿の中に入ってみます。

無料で入れますし、写真・動画も撮れます。

そして貴重な国産檜が使われています。

いろいろとパネルがあります。

四神相応を大切にしていた当時、建物の中にも四神が描かれたいたようです。

幢幡(どうばん)。興味深い展示です。

四神を含めた7本の旗を立て、その前に臣下が整列したようです。古代国家にとって最も重要な儀式だった元日朝賀と即位式に烏・日月・四神をモチーフにした7本の旗を立てたようです(なぶんけんブログを参照)。大極殿に向かって東から青龍旗、朱雀旗、日像幢、烏像幢、月像幢、白虎旗、玄武旗を配したようですが、7という数字や日月と烏(う)の旗の意味が気になります。烏(う)は日本独自の3本足のカラスなのだそうです。

熊野の八咫烏と関係があるのでしょうか。「三足烏(さんそくう)」はWikipediaによると、東アジア地域の神話や絵画などに見られる伝説の生き物で、太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴であったと書かれています。古代中国の文化圏で広まっていた陰陽五行説では偶数を陰、奇数を陽とし、三足烏(さんそくう)は陽となり太陽と繋がりがあったのだそうです。これも興味深いです。

国家の儀式の際に天皇が着座した高御座(たかみくら)は、イメージしたもので、奈良時代当時どのようなものが使われていたのかは分かってないようです。

鴟尾や大棟中央飾り(おおむねちゅうおうかざり)の解説もあります。

屋根には10万枚の瓦が敷かれているようです。

閉館時間が近づいてきたので、外に出ます。

天皇家のための仕事をする宮内省関連の役所と思われる建物が復元されています。当時の役人の仕事場や彼らが使っていた道具を知ることができます。

遺構展示館という資料館もあるのですが、こちらは入場が夕方の4時までとなっており、閉まっていました。東院庭園という宴会や儀式を催し、現在の迎賓館のような役割を果たした場所もありますが、そちらも4時までの入場だったので間に合いませんでした。

第二大極殿跡

平城宮跡歴史公園はとにかく広く、歩くと疲れますが、奈良時代が好きな人や奈良時代の遺跡が好きな人は1日無料で楽しめるので、じっくり散策する価値があると思います。遠くから奈良に観光にやって来る人の大半は、東大寺や興福寺など他の魅力的な観光名所に行くと思いますが、平城京も歩いてみるとなかなか面白い場所でした。

次回は東大寺と興福寺、春日大社を紹介します。

多川俊映『蘇る天平の夢 興福寺中金堂再建まで。25年の歩み』集英社インターナショナル(2018)

平城京の再建で国産ヒノキは使い果たす
朱雀門の再建で直径70cmの柱18本をはじめ、吉野檜、木曾檜が使われた。その後の第一次太極殿の再建で柱として使えるような国産のヒノキはほぼ使い終わったらしい。

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