【散策記】電車日本一周補完の旅2日目②上町台地周辺散策

大阪府

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大川、天神橋、中之島公園

日本一長い商店街 天神橋筋商店街を抜けると、大川に架かる天神橋を渡ります。真っすぐ歩くと昔から地盤の強い高台の上町台地に入り、街にはオフィス街が広がります。

現在の大川は旧淀川と言われ、淀川から分離されていますが、明治時代の分流工事まではこの川が淀川の本流でした。下の写真は大川の上流で、ここを上がって行くと京都へ行けました。

逆に下っていくと大阪湾に出ることができ、江戸時代は大川で水運が栄えました。後から知りましたが、日本史の教科書に登場する淀川は現在の淀川ではなく、この大川だったのです。

天神橋の下にあるのが中之島公園です。

ここも埋め立て地で、中之島公園の先端から北側は堂島川、南側は土佐堀川になります。堂島といえば江戸時代の大坂の三大市場の一つ、堂島米市場があった場所です。

中之島公園は江戸時代に1766年(明和3)に遊興地・景勝地として埋め立てられました。

中之島公園に降りてみます。昼寝をしている人を何人も見かけます。

緑の少ない大阪では数少ない貴重な憩いの場なのでしょう。まさに都会のオアシス、オフィス街の憩いの場です。

川の向かいには、かつて天満青物市場がありました。

渡ってきた天神橋の左側の下流に行くと堂島米市場があり、川岸には九州・中国・四国・東国の大名の蔵屋敷が並んでいました。

江戸時代、大川ではたくさんの船、三十石船という水主4名のいる船が人や物資を運び忙しく往来しました。全国から集められた年貢米や特産品が大名の蔵屋敷に運ばれ、そこで売られて諸国へ運ばれました。各藩の大名はお米や特産品を銀に換えましたが、少しでも高く売れるように常に相場を常に気にしていました。

また海運が発達すると、諸国の産物が廻船で大坂に運ばれ、問屋(といや)の手を通してまた諸国へ送られました。中には昆布のように大坂で加工されてから各地に運ばれたものもありました。

大坂は膨大なモノが流通する場所となり、ヒトとカネとモノが大きく動く、物流・経済の中心地であり、まさに日本経済の心臓部だったのでした。

こうしたことを事前に知っていたら、もっと中之島公園を歩いて堂島まで行ったのですが、この時は何も知りませんでした。これから向かう大阪歴史博物館の展示で知ることになるのですが、それも時間がなくて取り合えず撮った写真を後日見返した時に初めて知りました。

天神橋の近くから大川を上流に向かって少し歩くと、渡辺津(わたなべのつ)があったことを記す常夜燈があります。

かつて熊野古道の起点となった船着き場だったようです。

京都から船で下ってきた熊野詣の参拝者らは、ここで船を降り、陸路を歩き熊野古道へと向かったのだそうです。この後に参拝する四天王寺で少しふれますが、参詣者らは四天王寺に立ち寄ってから熊野の地へ向かったのでした。

渡辺津は中世は熊野への参拝者を迎える湊でしたが、近世になると陸路と水路を繋ぐターミナルとして発展し、八軒家と呼ばれました。天満橋と天神橋の間に八軒の旅籠があったからそう名づけられたとのことです。

この辺りには京阪電車の天満橋駅があります。

途中見つけた大川の看板には、「大川は、江戸時代には京~大阪を往来する三十石船で大いに賑わった。このあたりには八軒家船着場があり、三十石船は京の伏見を夜出ると翌朝大阪に着いたという」と書かれています。

天満橋

江戸時代の天満橋は、難波橋・天神橋とともに浪華三大橋と呼ばれた公儀の橋だったそうです。大坂は八百八橋と呼ばれるほど橋が多く、その多数が商人によって造られたものでしたが、三大橋は幕府により管理された橋でした。

公儀橋の天満橋と天神橋の間あった八軒屋は船着場は、明治時代になると蒸気船と鉄道の運行により大打撃を受け、消滅しました。しかし平成20年(2008)に水上バスの船着場として復活し、現在は3月下旬から4月上旬の桜が咲く時期に水上バスが運行されています。八軒屋浜船着場として名前も江戸時代の呼び名が復活しました。

川沿いは行き止まりになったので、地上に上がります。

地上に出て歩くと大阪城が見えてきました。歩いて中をじっくり観たいのですが、以前に来たのと時間がないので今回は断念します。

大阪城の天守閣は現在のものが3代目で、秀吉の時代は違う場所に天守閣がありました。

大坂の陣で徳川が豊臣を滅ぼすと、豊臣色を払拭するために城の残骸を全て壊し、違う場所に新しく天守閣を建てたからなのだそうです。

大阪府庁

目的地の大阪歴史博物館が見えてきましたが、石垣だけでも観たいのでちょっと大阪城に行くことにします。

なんとも立派な石垣です。秀吉の時代は現在の4倍の敷地があり、堀が巡らされた難攻不落の城でした。

秀吉の前は蓮如が石山本願寺の基盤となる石山御坊を上町台地の突端にあったこの地につくり、この辺りは小坂(おさか)と呼ばれていました。石山本願寺の寺内町として小坂は栄え、近くには鉄砲の一大産地であり国際的な港でもあった堺があり、栄えた歴史があります。

昭和になると城の周辺が軍需工場となり、大阪大空襲で焼夷弾や一トン爆弾、機銃掃射による徹底的な攻撃を受けまた。その爪痕は現在も石垣に残されているようです。

大阪城にはまだまだ知らないこと多く、いつか事前にきちんと本などを読んで予習して、ゆっくりと散策してみたいものです。石垣の高さが日本一だったり、蛸石と呼ばれる巨大な石垣があったりと、興味の尽きない城です。

意外にも堀の外周は3.5kmです。皇居は外周は5kmなので小さく感じられます。あくまで天守閣の周りの敷地ですが。

さて、大阪歴史博物館に入ります。

大阪歴史博物館

大阪歴史博物館は、大都会大阪を古代・中世・近世・近代の4つの時代から解説している博物館です。

1階の受付で入館料を払いエレベーターで一気に10階まで上がりと、奈良時代の難波宮の建物が目に入ってきます。

原寸大で復元していて、当時の宮殿の様子が分かります。柱は直径70cmらしいです。

女官が持っている棒は「さしば」といい、天皇の姿を隠すために使った長柄の団扇です。埴輪のモチーフにもなることもあり、さしば形の埴輪もたまに博物館で目にします。

女官から当時の女性の髪型や化粧、服の色彩を知ることができます。

朝廷で働く侍従の足元から、当時の靴が分かります。今のサンダルのような踵(かかと)を覆わない履物だったようです。

10階からかつて難波宮があった場所を観ることができます。

難波宮は日本最古の本格的な宮殿で652年に完成しました。中国の宮殿をモデルとした日本で最初で最古の皇居です。孝徳天皇の治世の下で大化の改新が始まった頃ですが、都が完成してから40年ばかりで火事で焼失してしまいます。

その後、40年後に再度同じ場所に都が造られましたが、8世紀の終わりに廃止され、建物は解体され新しい都に運ばれました。火事の起こる前を前期難波宮といい、再建された後を後期難波宮といいます。前期難波宮の頃は、難波が大陸文化の窓口として遣隋使、遣唐使、遣新羅使の発着地になっていた時代でした。後期難波宮の頃は、聖武天皇が副都として都を移しますが、1年も満たないうちに近江の紫香楽宮(しがらきの宮)への遷都が発表され、4カ月で平城京へ遷都されました。

古代の船の埴輪

2種類の木を合わせて造るためこのような形になっているのだそうです。1989年に埴輪を元に復元した船で大阪から韓国のプサンまで航海をしたようです。遣唐使の時代の技術では船は高波で浸水したり船体が真っ二つに折れるような代物だったと、何かの本に書かれていましたが、波が穏やかであれば、韓国くらいまでなら当時の技術でも航海できたようです。

現在の大阪の大半が海だった頃の図

大阪歴史博物館と大体同じ位置に大阪城の基となる石山本願寺が造られましたが、信長が落とすのに苦労したのも地形を見るとよく分かります。

個人的にはこんな展示も好きです。

古代の建築は実際のところどうだったのか、実はよく分かっていません。神社やお寺の建物も朱色とはいわれていますが、白木だった可能性があることを昔本で読んだことがあります。

ゆっくり観たいのですが、時間がないので古代ゾーンは飛ばし飛ばし観ました。

想像以上の広さと豊富な展示で、じっくり観ていたら3時間は欲しいくらいの博物館です。

10階から下に降りて別の展示室に向かう途中、エスカレーター乗り場から大阪城が見渡せます。

ガラスに館内が反射するので写真映りはよくありませんが、大阪城を一望できるいい場所です。

上から見ても美しい石垣です。

下の階の9階は中世の石山本願寺の時代の大坂と近世の江戸幕府の天領だった時代の大坂の展示です。

中世の建物

屋根は瓦屋根ではなく、板を敷き上に石を載せた建物に当時の人は住んでいました。畳もまだ庶民には普及しておらず、身分の高い者の屋敷にしかなかったようです。

本願寺の御影堂

奈良時代に難波宮がなくなった後は大阪の中心は四天王寺に移り、その後石山本願寺の寺内町ができると、本願寺が栄えました。堺も住民による自治と貿易で栄え、大阪では堺と本願寺が中心となりました。

見ずらいですが、一番下に先ほど常夜燈があった渡辺津があり、その少し左上の現在の大阪城の辺りに石山本願寺があり、その横に熊野古道があります。渡辺津で降りた熊野詣の参拝者らは、熊野古道を歩き真っすぐ進み、四天王寺へと向かいました。

大阪は寺内町を示す緑色になっています。天王寺は門前町、渡辺は港津集落ですが、堺が守護所となっています。これは調べてもなぜそうなのか分かりませんでした。

よく知られている「大坂」から「大阪」への変遷。小坂(おざか)と呼ばれていたり、「坂」の字は武士が死んで土に還る縁起の悪いものだから「阪」の字に、明治維新の後に変えられたこともよく本に書かれています。

近世の展示

公儀橋の一つ、難波橋を2.7分の1の大きさで復元しています。木の組み方や金具の留め方が見ていて面白く感じます。

大坂三郷

大坂には600を超える町があり、北組・南組・天満組の三つの町のいずれかに属していました。大川の上の茶色の区域が天満組、その下の黄色い区域が北組、その下の黄緑色の区域が南組です。大坂城周辺の紫色の区域は武家地で、そのしたのピンク色の区域が寺社地です。

下の写真は、町人によって架けられ維持・管理されていた安治川橋。こちらも2.7分の1の縮尺で復元されたもので、ぱっと見、公儀橋の難波橋と造りは変わりません。

江戸と違い、大阪では町人による橋の維持管理が多く、江戸が八百八町(はっぴゃくやちょう)と言われたのに対し、大阪は八百八橋(はっぴゃくやばし)と言われました。

のぞきからくり

江戸時代後期から始まり戦前まで続けれた興行で、レンズ越しに中を覗くと紙芝居のような劇を見れるものです。寺社の縁日には境内や門前で興行が行われたのが始まりです。四天王寺でものぞきからくりが行われたそうです。

道頓堀の芝居

江戸・京都と並ぶ芝居興行の中心地だった大坂では、道頓堀の辺りが芝居が盛んでした。入口に櫓や人形看板があります。

人形浄瑠璃の展示

歌舞伎や能と並んで日本の三大古典芸能の一つです(知りませんでしたが…)。浄瑠璃と三味線と人形が合わさった文楽で、太夫が物語や登場人物のセリフを語り、それに三味線と人形師がつくる動作を合わせて作品を上演するものらしいです。

能や歌舞伎は日本の伝統芸能だからいつか観に行こうと思っていましたが、人形浄瑠璃も観るべき伝統芸なのですね。人形浄瑠璃というよりは、「文楽」と呼ばれているようです。

人形浄瑠璃といえば曾根崎心中が有名です。名前くらいは聞いたことがありますが、なかなか興味が持てないのが実情です。図書館で大坂の歴史を調べているとよく出てくるので、一度は観た方がよさそうです。

山車

住友銅吹所

江戸時代は長崎の出島を通して海外に大量の銅が輸出されましたが、各地の鉱山で採られた銅は大坂で最終的に仕上げられました。銅吹所という、銅を純度99%の棹銅にする精錬所が大坂にはたくさんあり、その中でも特に住友銅吹所は最大の規模でした。

日本の生産量の3分の1を精錬していたというのですから、いかに住友が大きかったか分かります。銅の精錬により住友は成功し、後の住友財閥の基礎となったとされています(『地図と地形で楽しむ大阪淀川歴史散歩』を参照)。

少し見づらいですが、下の写真の奥にあるのが棹銅です(長崎歴史文化博物館の展示です)。大坂で精錬された銅は輸出しやすいように写真のような形にされオランダを通してヨーロッパに渡り、コインや大砲、船具などの原料になりました。

2015年電車日本一周の旅の時に長崎歴史文化博物館で撮った写真

干場のある家(おそらく商人の家かと)

江戸時代に干場があったのは意外です。博物館に来ると何かしら新しいことを知れて楽しいです。

こうした解説もあります。

放亀(はなしがめ)とは何か調べてみたら、放生会に使う亀のことでした。江戸時代、神社やお寺では放生会という、生き物を逃がすことで徳を積むとされる行為が行われました。境内で売られている生き物を買って(百円とかそんな値段だったような…)、それを逃がしていたのだそうです。写真の絵はおそらく縁日で売られる亀(放生会で放たれたものをまた捕まえたのでしょうが)の置き方の違いだと思われます。

亀の他に小鳥や鰻も売られていたそうで、亀は長寿、小鳥は幸運、鰻は金運があるとされたようです。放生会は現在も行われており、鎌倉の鶴岡八幡宮では毎年9月の例大祭で鈴虫が放たれているようです。これも調べてみたらいろいろな生き物がいて楽しそうです。

8階は、考古学でいいのでしょうか、発掘に関する展示でしたが、時間がなくて観れませんでした。

7階は大大阪の展示

大正の後期から昭和の初期にかけて、大阪市は大大阪と呼ばれていました。人口・面積・工業出荷額が日本で第一位で、東京市を凌ぐ世界有数の大都市だったのです。

大阪の周辺では江戸時代より綿花の栽培が盛んで綿織物が作られていましたが、明治になると紡績工場が造られます。近代設備を備えた大阪紡績会社(現在の東洋紡)が明治15年に設立され事業が成功すると、20以上の紡績会社が次々に誕生しました(『地図と地形で楽しむ大阪淀川歴史散歩』)。

鉄道が敷かれ銀行ができ、大型船が入港できるように大型の港が整備されて造船所も併せて建築され、商社ができ、大坂城の川向に造幣局がつくられ、東側には砲兵工廠がつくられ、紡績業を軸に他の工業も発展し重工業の中心となっていったのでした。

「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、1920年代には自動車が普及し、道路が拡張され、地下鉄が走り、近代都市の基礎が次々とできていきました。

7階ではそんな時代の大阪の街並みが再現されています。

前の記事の「大阪梅田」の項目で書きましたが、地下鉄の工事は大変なものでした。海水をせき止めて工事を行いましたが、昭和8年(1933年)の5月に梅田-心斎橋間が開通し、次いで昭和10年には難波まで延び、13年には天王寺まで延びました。

考えたこともありませんでしたが、地下鉄は戦前既に地盤の軟弱な大阪で開通していたことも、旅をしたおかげで知ることができました。当時に既にそれだけの技術力があったのは意外でした。

大正~昭和初期に賑わった道頓堀の角座前

道頓堀は芝居の街として多くの観光客を招きました。

公設市場

まだ調べ切れていませんが、値段が高くなり過ぎないようにされていたらしいです。

以上大阪歴史博物館でした。

豊富な展示でとても見ごたえのある博物館でした。古代から近現代までの大阪の歴史を展示していて、かなり広範囲な内容ですが、所々分かりやすい解説があるので、飽きることなく展示を楽しむことができました。こちらも時間を気にせず半日くらいじっくり展示を観たいを思える、いい博物館でした。

さて、大川・天神橋・大阪城周辺を散策した後は、地下鉄に乗り四天王寺に向かいます。

谷町四丁目駅から3つ目の駅(運賃230円)、四天王寺夕陽丘駅へ向かいます。

続く

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